2018/6/30(土) | 18:30〜20:30
【終了】子どもの本を読んで哲学してみませんか?〈参加者が寄せてくれた感想〉
ル=グウィン著「ゲド戦記」をより深く楽しみ考える
「ゲド戦記」等、すぐれたファンタジー作家であるアメリカ人のアーシュラ・K・ル=グウィンが1月22日に死去されました。追悼の意味もあり、今回、「ゲド戦記」全6巻の中の前半第1巻〜第3巻を取り上げ、この作品について皆で語ろうと思います。
「子どもの本を読んで哲学する」会は「哲学対話」(正解のない問いに対し自由に話し対話する。対話は討論と違い、話す前と後で考えが変わる。)という思想を元に、皆で本に対して自由に考えを述べ、対話をする読書会です。哲学的用語などで話す会ではありません。お気軽にご参加下さい。
今回はゲド戦記1〜3巻をお読みになって参加してください。読みながら印象に残った箇所に付箋などを付けておいてください。会では参加者に特に印象に残った部分とそれをあげた理由をあらかじめメールなどでお送り頂けると有り難いです。
ゲストに清水眞砂子さんに来て頂き、会を進めていきます。清水さんにはこの本や、著者にまつわるエピソードなども話して頂きます
参加費は1人2,500円(会員/中・高生/学生2,000円)※百町森で本を買って頂いた方は文庫本1冊につき100円、ハードカバー1冊につき200円割引します。(自主申告制)
先着4名さままで1台300円で駐車場をご利用頂けます。今回冒頭、ライアー演奏もあります。
対象:親、保育者、学校の先生、図書館員、読み聞かせボランティアをしている方、子どもの本が好きな方、中・高校生、大学生…どなたでも。
会や駐車場の申し込み予約はお電話で。054-251-8700
8月4日(土)は4〜6巻を取り上げます。こちらのご予約もお受けしています。
(写真は会の様子)
以下、参加する方からあらかじめ印象に残った箇所をあげて頂きました。
1巻『影との戦い』
●文庫p.126「カラスノエンドウがその本名をあかしてくれるとは!なんという贈り物だろう。人の本名というものは、本人と名付け親しか知らないものだ。」
→ゲド戦記は、子ども時代に初めて読んだハイファンタジーでした。真の名前という概念?を知って、憧れました。自分にも誰か真の名前を授けてくれないものかと。私にとってのファンタジーは、ゲド戦記から始まりました。
●「真の名前」を知るとその人を支配できるという面白さや、「影」の名前を知るという結末の圧倒される凄さ。→こういう着想、発想はどこから得たのかと思う。文化的背景があるのか?
●ゲドとカラスノエンドウとの友情も好き。→自分と自分の友人のことを考えてしまう。また、ノコギリソウの登場など、カラスノエンドウの家に行った時の、ほっと一息感がたまらまい。
●文庫p. 216〜226ハヤブサに変身したゲドがオジオンの家で人間に戻ったときの2人の会話など
●文庫p. 268〜300カラスノエンドウの住む街で、二人が再会し、ゲドの旅に同行する。
→40代になってから初めてこの物語に出会ったので、「英雄物語」としてだけではない印象をうけました。
●p98ゲドがエルファーランの魂を呼び出してしまう場目。物語の発端。力を有する者の傲慢さから至った愚行。
●p222「自分がしなければいけないことは、しでかしたことを取り消すことではなく、手に付けたことをやりとげることだった。」
→自分を振り返っては、しでかすことの連続だったが、いつも心にこの浮かべては自分を奮い立たせて歩んできました。悔やんでも問題は解決しない、何をなすべきかが大切だと教わった。
●〈光と闇〉について1 ソフトカバー版 p74 冒頭からは引用しないが、目くらましの術についての長の言葉 7行目 「宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡を揺るがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん。そして、まこと、それが必要となる時まで待たねばならん。あかりをともすことは、闇を生み出すことになるんでな。」
→このあとの若いゲドの返答にも注目、この時、ゲドはオジオンと同じことを言うと批判をしており、最後には(思う存分好きなことができて、宇宙の均衡とやらも、こっちのいいように変えられるんだから。闇だって、こっちのともすあかりで押し返せるわ。)このゲドの言葉そのものの展開が、ゲド戦記の『影との戦い』、そして『さいはての島へ』とつながるのではないか。
●〈光と闇〉について2 成長しているゲドは、同書のp269の左から10行目からのノコギリソウとのやりとりで光について語っている部分がある。
「光は力だ。偉大な力だ。われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の運行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合はちがうんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。だからいろいろ出てきたとしても、そんな目くらましにすぎないんだ。」そしてその術は決して軽々しく使ってはいけないと結んでいる。(均衡については、おなじソフトカバー版の『さいはての島へ』の122Pにたっぷりと記されている。)
2巻『こわれた腕環』
●p212「彼女が知り始めていたのは、自由の重さであった。・・・自由は与えられるものではなくて、選択するもの。」→それまでの重荷、閉塞感。隠遁生活から解き放された時のアルハが感じた戸惑いに共感。それまで彼女を縛ってきた事柄は、彼女の拠り所にもなっていた。そして、ゲドとの出会いに要る価値観の転換。自分の意思で物事を選び取ること。それが自分を生きていくということ。
●p75アルハには、人それぞれがおたがいどんなにちがっているか、どんなにちがったものの見方をするものかがまだわかっていなかった。彼女はふと目をあげた窓の外に、まったく新しい巨大な惑星が人間をいっぱいのせて浮かんでいるのを見たような思いがした。 →与えられた生き方ではなく、自分の生き方を語るペンセを、りんごのようにみずみずしく、きれいだ、とおもいながらも、それを暗い目つきで見つめるしかないテナー。信じていたものが少しずつ崩されていくことを象徴したシーンと思えて好き。
●ハードp133テナーがゲドの目くらましの魔法でトルコブルーの絹のドレスをいつの間にか着ているところ。→この部分のセクシャルな感じや、自由を求めて飛び出そうとしていながら何度も心が揺れるなど、2巻全体が「女性」性を感じる(そういう意味では1巻は「男性」性)。20代で初めて読んだ時は1巻と違い過ぎてなかなか読み進めなく(「ゲド戦記」という名前とのギャップも)、面白さをほとんど感じなかったのに、『帰還』の会で皆の話題に上ったことを頭に入れながら読んだせいもあってか(4巻を読んだ後で、連続性も見えたせいか)、今度は楽しく読めた。
3『さいはての島へ』
●文庫p331 ℓ1「・・・・・・あの方の死はあの方の生命を失わしめはしなかった。・・・・・・死んだ人々はみな生きている。死者は朽ちることなくよみがえり、永遠に果てることはないだろう。ただそなたは別だ。死を拒んだからだ。そなたは死を失い、死を失うことで、同時に生を手放した。・・・・・・」
●文庫p332 ℓ4「・・・・・・そなたには日の光も見えなければ、夜の闇も見えない。そなたはそなた自身を救うために、緑の大地も、太陽も、星も、みんな売ってしまったんだ。だが、今、そなたに自己と呼ぶべきものがあるか?ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ。そなたの自己だったんだ。・・・・・・」
→小さい時、人間には、自分には『死』というものがあるんだということが分かった時、とても恐ろしかった。周りの人たちがどうして平気でいられるのか不思議でしょうがなかった。そうしていくうちに「じゃあ死のない世界ってどうなんだろう」と考えるようになり、今度は死ぬことのできない世界ってものすごく苦しい世界で、あり得ない!」と思うようになった。自分が漠然と思っていたことが、ル=グウィンの言葉によって目の前に描かれていることに共感を覚え、「死」があるからこそ「生」が輝くという言葉にも素直にうなずけた。
●文庫p257 ℓ7「・・・・・・ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け容れる力だ。」→つくづくその通りだと思う。老いや病や死を受け容れる。苦しみを受け容れる・・・・・・難しい!人を受け容れる・・・・・・梨木香歩『春になったら苺を摘みに』のウエスト夫人の「理解はできないが、受け容れる」という生き方を思う。これも難しい!
●p23真ん中あたり「しかし、今や、アレンの奥深いところで眠っていたものが目を覚ました。それを目覚めさせたのは遊びでもなければ夢でもなかった。それは人に対する敬意であり、迫りくる危険であり、そして知恵だった。」→人(自分の常識の範疇にないような人)に出会い、危険に出会い、知恵をしぼることがいかに大切か。
● p71「ある人生とする人生」 「ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような…それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間」
● p76「竜は夢など見ない。竜自身が夢なのだ。…竜はまた、ことを為さない。彼らは在るだけだ。」
→竜って子どもに似てる?自分自身は、することに追い立てられている毎日。隙間を愛したい。
●p71.最後から2行目「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られたときには。まだ若かったころ、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしは鱒がハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だがわしらは何をしてもその行為のいずれからも自由になりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、またつぎを生む。そうなると、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような、するということをやめて、ただ、あるという、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね。」 これほどの男が、自分とは何者なのか、と考えるなんて!アレンはそんな疑問は、まだ何もしていない若者だけが抱くものだと考えていた。
→自由ってなんだろうと考えさせられた。ひとつの行為が次の行為を呼び…というのはすごくよくわかる。「これほどの男が自分とは何者なか」と考えるなんて!とアレンが思う事に共感した。こんなにたくさんのことをしてきた人が、自分とは何者だろうと考える時間、ただあるという、それだけでいられる時間を大切に思っている事が、すごくいいな。と思った。
●p130最後の行からp131全部 とくに、アレンはふと、その顔を照らすものが、人間の顔を、しわまでも消してくまなく照らす、あの冷たい魔法の光ではなく、自然界の光そのものであることに気がついた。夜が明けた。朝の日の光が今あまねくあたりを照らし始めたのだ。大賢人の力より、さらに偉大な力があったのだ。そして、経てきた年月は、ハイタカにだけ特別のはからいをするなどということはしていなかった。今、大賢人の顔に見えているのは年輪が刻んだしわだった。彼はひどく疲れているように見えた。あたりはしだいに明るくなっていく。大賢人はあくびをした…。
→自分にとって大切な事を言ってくれる人。すごく尊敬している人を、でも、自分と同じ人間なんだ。と同時に思う事が、そのことにすごく安心する事が自分にもあったし、今もあるな。と思い、とても好きな場面です。
●p167「ところで、彼らには何が欠けていると思う?」「生きる喜びだとおもいます。」
→心がすっきりするような、すごく腑に落ちた場面。人間らしく生きるために必要なことはこれだなと思いました。
● p256 真ん中「アレン、良い人間とはどんな人間かな?…から p257真ん中…それは何かを獲得する力ではなくて、受け容れる力だ。」
→迷いや怖い者は、実は自分の中にあることを感じた。また、この章のなかで何度もゲドが言っているが、何かをするのではなくて、しないほうが難しいこと。何かを獲得する力ではなく、受け容れる力が、本当の力だ。と言っている事。そのことがとても心に残り、それは四巻の帰還で感じた事と一緒だなと感じました。
本当の力とは受け容れる力。受け容れるとは…とすぐに答えが出ないことばかりだけど、ずっと心に残しておきたいことだと思いました。
●p226 7行目後半『無垢』についてもよく出てくる
「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある」
→おぼろげだが、この無垢と、ただ在るだけだと書かれていた竜につながるようにも思う。わたしの中では、テハヌーにも。
https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/63483
ゲド戦記を読み直しをしている時期だったので、偶然の出来事に驚きを感じました。
そのなかでとても興味深い部分があるので一部抜粋します。
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この字をよく見てください。門構えに音とあります。門は密閉です。閉じ込められているのです。何も見えません。
しかし、その中で音が聞こえるのです。闇が深ければ深いほど音が聞こえてくるのです。わたしにとってこの音こそが救いの予兆のような気がするのです。研ぎ澄まされた五感が神聖なものを呼び込むような気がするのです。
語義の説明では、門は聖人を祭った神聖な場所<廟>を表し、「音」は廟の中での神からの「音なひ」を示すのだと云います。「音なひ」は、「おとずれ」とも関連するものです。神のお告げが現れる場が闇だとも云うのです。
ですから、語義的にも漢字の「闇」は不吉なことのみを指すものではありません。
闇の向こうにあるのは救いなのです。神のあらわれる前提と云ってもいいでしょう。
眼を閉じると云うことは、自らの行為の中で、暗闇を感じることです。目を閉じる、瞑目という行為なしに祈りはあり得ません。
闇と対照的に想起される言葉は「光」です。
聖書の中で、「闇」と「光」について触れている箇所がいくつかあります。
今日引いたのは、ヨハネによる福音書第1章4節〜5節です。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
命が光であるとするならば、闇は死でしょうか。絶望でしょうか。闇がなければ光はあり得ないのです。「闇」は光の前提なのです。命は、「闇」を通じて生まれてくるのです。「光」のみでは、「命」は生まれないのです。
以下、会で取り上げられた話題など。
1巻『影との戦い』
10代で読んだ時、自分との戦いというのが衝撃的だった。若者向きと思っていたが、今の自分に腑に落ちる。出会えて幸せ。
小5で読んで面白かった。以後、ファンタジーを読む基準、原点に。一人の人間が考えたというより、世の中の概念が集まっている作品のよう。
「真の名」ー名前の重要さ→インディアンの世界の名付けなどから来ているのか。「千と千尋の・・・」にも。沖縄の童名を12〜3歳まで使う風習がある。トルコ人も別の名前で呼び合う。
ハヤブサに向き合うオジオンの言葉が大人の自分に響いてくる。出ていくことを止めないふところの深さ。本当にこれでいいのか? 親の立場として自分にできるか。自分が問われる。
友だちが「スマホを手に入れた子が全世界を手に入れた気になっている」と言った。そういった「力」でしか人と関われなくなるとしたら怖い。ル=グウィンは力の怖さを知っている。魔法と言ってもじゃんじゃんやるのではなく「均衡」を大事にしている。「戦記」と言っても戦いは力を得るためではない。
好きな言葉→「聞こうとするなら黙っていなくては」影を追うときの独り言。
オタク(ゲドの肩に来る動物)とは?→清水「ル=グウィンは野生の大事さを言っている。野生(ワイルド)に任せる。人工的なものでない野生から導かれる大切さ。オタクにそういうものを見る。ふと、絵本『もりのなか』のウサギとそっくりでは?と驚いた。森をどうやってくぐり抜けるかという時の必死の空想。必要な時にだけいて、いつの間にか消える。」オタクやウサギが主人公をどこかで支え、助けているということか。
2巻『こわれた腕環』
迷宮のところは怖い。ゲドはいつのまにかいた。どこから、なぜ入ってきたのか? 腕環を探しに来た。「エレス・アクベのいさおし」の歌にその謂われがあった。指輪が一つに完成するとなぜ、どこに、平和が訪れるのか? アースシー?カルカド?
青いドレスのところがセクシャル。ここは著者が女だから書けたのかも。
アルハの心変わりは女だから?若いから?
ペンセが登場、ブタ飼いと結婚する話などし、それによって自分と違う考え、違う世界を知る。
地下の世界が随所で見られるというのはちょっと都合がよすぎるのでは。
アルハが自分の部屋から下にいるゲドを見た時や、外に出てからゲドがアザミの根元で寝る時など、男性の寝顔を見るシーンは、テナーに恋心が芽生えているということか。
清水「若い人でこれが恋の話だと気がつかない人がいる。」「ストーリーがまるでシンデレラコンプエックスのようだと批判する人もいるが、ゲドもテナーに助けられるわけだから、それは当たらない。」「4巻は実際には2巻出版後18年経ってから出たが、構想は3巻を世に出した時にすでにあった。ル=グウィンは本当はすぐに出すつもりだったが、テルーの境遇をどう設定するかで時間がかかってしまったようだ。」
3『さいはての島へ』
p23,p63アレンが独り立ちしていく場面→わが子がピアノを演奏していて突如弾き方が変わる時があった。親から独立する事への気の咎めが母への贈り物。
p64剣に対しての思い。
p71普段追い立てられる生活、隙間の時間を大切にすることを教えられた。ゲドのような男でもこれほどまでに考えることに共感し、ただあることに意味を持つことを素敵だと感じる。
p76竜は子どもに似ている。
p130大賢人でありすごく尊敬しているが、同時に自分と同じ人間なんと感じるところ、アレンと同じ年の頃そう思うことが自分にもあった。
p256力とは獲得する力ではなく受け容れる力。受け入れるとは何かを考え続けたい。アレンが何かを獲得する・・・それが若いということか、60を過ぎると一生懸命してきたが…。社会が受け入れることに「脆弱」では。
p331エレスアクベの死について→影あるから光がある、死があるから生がある。
p332→4〜5歳の時、『死』が自分にも来ることに気づき、恐ろしくて仕方がなく、皆が平気でいられるのか不思議だった。でも死ねない世界も恐ろしいと考えるようになり、今回、ル=グウィンの「死」があるからこそ「生」が輝くという言葉を実感した。
p226 7行目後半『無垢』について→「ただあうだけ」の竜ともつながる。光と影、宇宙の均衡が強くかかれている。
光のみで命は生まれない。1〜3を通して「均衡」をメッセージとして受け取った。
「キリスト教の影響を受けているか」の質問に対し→清水「ル=グウィンはそういう質問をしても"コンポスト(混ぜて新しいものを作るというイメージか?)”と答えるのよ。」ということでした。
翻訳されたときのエピソードも大変興味深かったです。機械のない道具の時代に思いを寄せ、時間の流れだけでなく、その長さ、テンポ、リズムを意識されたと。壮大な物語を日本語で丹念に表現されていったことに、あらためて敬服しています。「くらしの中の言葉が生き方に結びついていく」ということを意識して生活していきたいと思います。
ディスカッションしている時は、一番気になる部分は、均衡や、
わたしは印象に残ったところにも書きましたが、
ゲドはクモにたいして、
ゲドは過去の自分にも、あらたに勝つためにも、無垢である存在のレバンネンと共に旅をする必要があったのではな
哲学をするは、それぞれの考えを聞くことができ、
「ゲド戦記」は、ひとりで自分の中に潜っていかれる物語で、
2度目、巻によっては3度目の読み返しでしたが、
でも、皆さんのお話しをうかがいながら、
沈黙、均衡、真の名など、
私は、初めて読んだのが鬱屈としていた時だったせいか、『
でも、子どものころ初めて読んだ、
他の参加者の皆さん、翻訳者の清水さんのお話を伺いながら、
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清水さんが翻訳するにあたって、その文化の状況に近い体験をしてその時代の時間の流れに合った文章にする(と受け取りました)とのお話しを聞き、そういうことはあるに違いないと納得しました。また、学生さんがゼミの中で理解が深まるにつれて顔や話し方が変わってくるというお話もあり、それもこのことと通じているように思いました。「わかる」ことは「変わる」ことだという考えがありますが、身をもって理解をする経験をすると、確かにふるまい方が気づかぬうちに変化することがあります。自分自身ではわかりませんが、他人の変化についてはよくわかります。
私は保育者養成の仕事をしていますが、学生が保育実習に行って子どもとの「真の言葉」でやりとりする生活をして帰ってくると、表情がすっきりというか、深くというか、“何か”が変わったことがわかります。「余分なものがそぎ落とされたような感じ」と表現した同僚もいました。本を読むゼミでも自分の深いところで考えることができると、そんな変化があるんですね。自分の体をくぐった言葉で語り、考えることの大切さを改めて感じたひとときでした。
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毎回、参加者のみなさんが深く読んでいらっしゃることに感心。それぞれ初めて読んだ年代も違えば、心に残るところもちがうのがおもしろくて、もう一度読みたい気持ちになって帰りました。
清水眞砂子さんから、翻訳は10年くらいで見直すということを伺って、文庫版も読みたくなりました。流行の言葉を使った作品は逆に古くなってしまう、というのもなるほど!でした。で語られる世界を忠実に翻訳で再現するというていねいな仕事のお話。その翻訳のおかげで私はアースシーの世界にすーっと引き込まれていけているのですね。もしかしたら、物語が下りてきて書く作者よりも翻訳するほうが時間がかかっているかもしれませんね。
「(皿洗いを)ゲドだってしてくれるのよ」と訳しそうになったのを、お連れ合いとの会話の中で「ゲドだってするのよ」とすべきと気づいたという話、ささいなようでまったく状況がちがってしまう言葉遣いのエピソード。機械の時代の言葉と道具の時代の言葉のことなど、真の言葉が世界を作っているんだなあと、感心しました。
と気になって調べたら普通に「husband」でした。これを「つれあい」と訳したのは、清水眞砂子さんならではだ!と、嬉しくなりました。物語の内容はさておいて、その世界観を作る翻訳の言葉のことばかりになってしまいました。(英語教室主宰)
そんな私にとって大切な物語の読書会。ましてや翻訳者の清水真砂子さんとご一緒なんて!夢のような時間を過ごすことが出来ました。今回はシリーズ前半の3冊『影との戦い』『こわれた腕環』『最後の戦い』についてグループに分かれて感想を話し合い、その後全体で発表する形で読書会は進みました。読み手によって、気になるところや心に残るところは色々。同じエピソードでも様々な受け止め方を
知ることができるのが読書会の興味深いところです。私は『こわれた腕環』のグループに入れていただきました。
『こわれた腕環』は他巻と違って女性的な視点に重きを置いて書かれた作品。主人公はゲドというよりテナー。闇の神殿に使える大巫女の生まれ変わりとされ、崇め奉られて育った少女テナー。ゲドとの出会いで幽閉された世界の嘘と偽りの自分に気が付き自由を手に入れるというストーリー。テナーの心の動きに自分のこれまでの経験を重ね合わせ、特に自由になった時の戸惑いに共感しました。物語の中では「彼女が今知りはじめていたのは、自由の重さであった。自由は、それをになおうとする者にとって、実に重い荷物である。それは、決して、気楽なものではない。」「自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではない。」と語られています。この言葉は、日本の現状を見渡すとき、私たちの心にしっかりと刻まなくてはいけないと感じまし
た。
物語の随所に散りばめられたグヴィンからのメッセージ。それをいかに日本語で伝えるかに真摯に取り組まれている清水真砂子さん。玉座に続く階段の高さ、それを這い上がる幼子のイメージ。物語の些細な部分までも確かなものを求めて積み上げていく緻密な作業。「翻訳家と演奏家や演出家の作業はとっても似ているのよ。」と話してくださったエピソード。グヴィンとのやり取りの様子、ここでしか聞
けない裏話の数々は私の宝物です。壮大な物語を紡いだグヴィンはその源を「熟成」と話していたそうです。
次回は『帰還』『アースシーの風』『ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)』の3巻。清水真砂子さんからはアフガニスタン問題などが物語の背景に感じられるかも、というヒントをいただきました。読み進めるのが楽しみです。
そんな状況を救ってくれるのが、豊かな感性を持った人と出会い話しをすることです。私にとって、それは20歳くらい年上の先輩が、そんな貴重な一人でした。自分でも行き詰まってしまったなと思ったときに、わがままを言ってその先輩のお宅を尋ねさせてもらったことがあります。少し話をしているうちに、自分の心の中にすーっとエネルギーが湧いてくることを感じました。自分の心が柔らかくなっていることを感じ、来たときと全く違う自分になって帰るとことができたように思いました。
今回の清水先生との読書会でも、同じようなことを感じました。もちろん、ゲド戦記の読書会ですから、第1巻に出てくる“オタク”が、エッツの『もりのなか』のうさぎと同じ野生の導き手としての役割を果たしているとか、清水先生自身が、男の子を育てた経験がないので、ゲドにどのような日本語を話させればいいのかで悩まれたとか、示唆に富むお話を伺えたことも、とても興味深いことでした。しかし、私にとっては、清水先生と同じ空気を共有でき、そのことで、自分の感性がチャージできたことに、より感動したのです。
清水先生の醸し出す心地よい空気感は、得難いものだと思います。それは一つには、物腰の柔らかな話し方や立ち居振る舞いから、生み出されていると思います。しかし、それだけでなく、未だに作品をよりよいものにして読者の手の届けようとしている姿勢、つまり、70歳を超えた〜女性に年齢を言うのは失礼ですが〜今でも、学び続けている真摯で謙虚な姿勢によっても、生み出されているのではないかと思います。年をとるほどに感性を柔らかく磨いていくということは、とても難しいことだと思いますが、この点でも清水先生の生き方はとてもよいお手本になっていると思います。
こんな素敵な出会いの場を提供してくださった『百町森』の皆さんに感謝いたします。もう一度、この心地よさを味わいたくて、日々の仕事の合間を縫って、今、ゲド戦記の4巻〜6巻に向き合っています。
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- 名称:
- 子どもの本を読んで哲学してみませんか?・・・ ル=グウィン著「ゲド戦記」をより深く楽しみ考える
- 開催日:
- 2018/6/30(土)
- 時間:
- 18:30〜20:30
- 場所:
- 百町森 プレイオン
- 料金:
- 一般2,500円 会員、中・高生、学生2,000円(税込)