2018/8/04(土) | 18:30〜20:30

【終了】子どもの本を読んで哲学してみませんか?〈参加者からの感想〉

ル=グウィン著「ゲド戦記4〜6巻」をより深く楽しみ考える

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「ゲド戦記」等、すぐれたファンタジー作家であるアメリカ人のアーシュラ・K・ル=グウィンが1月22日に死去されました。追悼の意味もあり、今回、「ゲド戦記」全6巻の中の前半第4巻〜第6巻を取り上げ、この作品について皆で語ろうと思います。

「子どもの本を読んで哲学する」会は「哲学対話」(正解のない問いに対し自由に話し対話する。対話は討論と違い、話す前と後で考えが変わる。)という思想を元に、皆で本に対して自由に考えを述べ、対話をする読書会です。哲学的用語などで話す会ではありません。お気軽にご参加下さい。

今回はゲド戦記4〜6巻をお読みになって参加してください。読みながら印象に残った箇所に付箋などを付けておいてください。会では参加者に特に印象に残った部分とそれをあげた理由をあらかじめメールなどでお送り頂けると有り難いです。

ゲストに清水眞砂子さんに来て頂き、会を進めていきます。清水さんにはこの本や、著者にまつわるエピソードなども話して頂きます

参加費は1人2,500円(会員/中・高生/学生2,000円)※百町森で本を買って頂いた方は文庫本1冊につき100円、ハードカバー1冊につき200円割引します。(自主申告制)
先着4名さままで1台300円で駐車場をご利用頂けます。今回冒頭、ライアー演奏もあります。

対象:親、保育者、学校の先生、図書館員、読み聞かせボランティアをしている方、子どもの本が好きな方、中・高校生、大学生…どなたでも。
会や駐車場の申し込み予約はお電話で。054-251-8700 

10月6日(土)はフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』を取り上げます。ゲストは清水眞砂子さん。こちらのご予約もお受けしています。

CIMG6254.JPG(写真はCIMG6253.JPG会の様子)

今回各巻ごとグループに分かれて話しました。以下、それぞれ話題になったことです。

4巻『帰還』

・小学校6年の時、ジブリのアニメ映画で見たのがきっかけで原作を読んだ。そして、テルーに惹かれた。-―怖くはなかったか? 魅力的に思えた。やけどをされつつも強く生きることができる−格好いいと思った。

・児童文学とは思えなかった。

・(中学生の女の子がテルーに共感や魅力を感じたのに対して)大人→テルーはどこか不気味で捉えどころのない存在。竜の子どもだった⁈ 理解できない…。

・テヌーとテルーが実の親子ではないことは重要なポイント。積極的に子どもを抱えていく姿勢。虐げられた存在を抱えていく姿勢。血のつながりを超えて、人と人とがつながる感じがとてもあった。

(清水「子なしで活躍する女性のウーマンリブとは一線を画す」)

・政治の言葉(教員言葉、役所の言葉も)→目の前で通じてないのに形式を取るくだらなさ。現実的で説得力ある生活の言葉に変えていく努力を。

・男性言葉優位の社会ってどうか? ゲドを読むと家事がしたくなる。→そのためには、生活を疎かにしない。丁寧に暮らすこと。(無名であることを勝ち取る物語として、丁寧に暮らすこと、これがキーメッセージのひとつかと個人的に感じた。)

・後から身につける言葉によって、かえって分かりにくさを増す→生活の中で言葉を覚えていく子どもを見ていて、いつから生活と言葉が乖離するのか、社会に出て一生懸命身につける力ある言葉が生活を乖離させていく?不思議

・4巻全体に流れるテーマとして「信頼」といったものを感じた

 

以下清水

「“やってくれる”と訳しそうになってヒヤっとした事がある。ちょっとした言葉でル=グウィンの思想を無にしてしまう。とても緊張感のある仕事だった。」

「原題は『テハヌー』、3巻を出した後アイデアはあったが、テルーの後がなかなか結べず、結局、書き上げるまでに時間がかかった。」

「成熟したフェミニズムがここには息づいているのにアメリカでは批判が多かった。」

「フェミニズムを扱っている。1〜3巻より時代が生に感じられる。」

「“自分がどこを見れば過ち少なく生きられるか”というのが私自身当時かかえていた課題のひとつだった。それへの答えを見いだした思いだった。」

「テルーの存在→社会の末端を見落とさないこと。」

「ル=グィンは一般的なウーマンリブの運動を横目に見て、子どもを抱えられない、子ども抜きで考える風潮の危うさに気づいていたと思う。」

「第4巻を訳し終えた後、乙骨淑子に真っ先にこの作品を読んで欲しいと思った。すでになくなっていたけれど、“生活の言葉”で書かれている。今もなおそういうのが低く見られる傾向がある。」「生活をくぐり抜けた言葉をどこまで獲得できるかが大事。」

「コケババの訳し方、生理一辺倒、生活の言葉だけでは一方でカバーできない世界がある。」

「暮らしを大事にする→ひらがな言葉でどこまで現実に対応できるか。」

「知恵の書の扱われ方→作中で4巻では絶対視されなくなっているのが面白い。」

「テルーに作ってやったドレス→私物を持った後の関係の変化をあれこれ考えずにはいられなかった。」

 

5巻『ドラゴンフライ』

「前書き」

・作者が知らないうちに物語がいろいろ変わっていた。ドラゴンと人間が別れ、人間がドラゴンの領分を侵略した。→考え抜かれている。6巻とのつながり

「カワウソ」

・アニエブという女性が不思議、登場の仕方から切ない。故郷に帰る途中で死ぬ。

・母の言葉→2人は「信頼」しあっていた。

・もう1人の女性モエサシの言葉→「・・・どうということのない無名の人びとのなかにしか、希望は残っていないと思うわ。」力や金のない人、貧しい人の声を聞くことが大事。

・カラスノエンドウ、ノコギリソウ、テルー、アイリアン、ハンノキ、セセラク・・・こういう人たちが生き生きと描かれている。 

・“手の女”たち→「社会の隅っこで目立たないが命のことなどに関わる大事なことをする女性たち」?が印象的。清水「Graphicationの編集長だった田中和男氏(故人)は日本の社会の中にいる“手の女たち”を見つけて特集を組んだ。彼はすごい力をもった人だった。」

「ダークローズとダイアモンド」

・ゴールデンの愛情→最初は好きになれなかったが、ロークへ行かせた時、帰って来た時の言葉に深い愛情が見て取れた。

・駆け落ちを悲しむ姿に物欲だけでなく情を感じた。この時トゥーリーがゴールデンに寄り添う姿も・・・。

「地の骨」

・オジオンの小屋は癒しの場所。

・へレスの師匠が魔女だったことに、グウィンの想いを感じた。

「湿原」

・ベリーが急に感情的になり抑えが効かなくなる→発達障害の子の反応に似ている、自己理解をし、自分の行動をコントロールしていこうとするのだが、・・・・・・。

・メグミ→攻撃性を理解し何でも受け入れる女性

「ドラゴンフライ」

・様式の長がかっこいい。ヒッピーの精神を感じる。東洋思想(老荘思想)の影響か。

・この世は均衡を崩している。 9.11を予言? 清水「この頃アフガニスタンの紛争があった」

・「アースシーの風」原題The Other Wind(アイリアンが言っているこの風とは太古の力、女性持つ力という意味か?)このタイトルからは9.11以後に向けられているのでは? 清水「今、別の風が吹いて欲しいわね。」

 

6『アースシーの風』

・ものを直す力があるハンノキの登場で、もしかしたらテハヌーの外見を直すのではないか?と密かに期待していたが全く外れた。ハンノキが直したのはもっと大きな「世界の均衡」だった。

・『さいはての島へ』の「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある。」とあったのを思い出した。

結局、アイリアンも、テハヌーも、ハンノキも石垣を壊すために重要な役割を持っていた。この無垢な人たちなくしては、始まらないし、終わりもしない。

・石垣に行ってハンノキは命を落としたが、それはハンノキにとって幸せ、石垣が壊されて死者たちに平安がもどった。

・ハンノキに与えられた子猫ヒッパリもしゃべらないが人をいやすことができた。

・4巻でフェミニズムが表れた時には、著者が同じ時代を生きていることを感じ、「男対女」について考えさせられたように、6巻では「文明対自然」がテーマなのか? 「人対竜」? 竜のことをどうとらえたらいいのか難しい。

・竜の言葉はシンバルのようで人には届かない。

・竜や魔法は自然とともにあり先住民的で、対するガルガド人は文明社会や人間のエゴを表していると思っていたのだが、ところが、文明より自然のほうが価値がある、自然は善で文明は悪、というような単純な構図ではなかった。

・どちらかが良いとか悪いとかではなくて、異文化と融合するところに価値があったのでは。(アレンとベールをかぶった女性の結婚、本能的、動物的なアイリアンと様式の長アズバーとの出会い)

・そういえば、セセラクの心を開かせたテナー自身もずっと異文化の中で生きてきた人だ。こういうところも物語がつながっている。

・5巻でもやもやしたカップルたちが歩み寄ってハッピーエンドになったり、テハヌーが竜の世界に行くところでは親離れ子離れに重なって共感したり、日常をていねいに暮らしていく残された老夫婦の生活にほっとした。(ドラマチックの中に日常はちゃんと動いている。)

・最後のゲドとテナーの会話がとてもいい。こういう終わり方でよかったと思う。

・トンボの名前がドラゴンフライと改訳されたことについて。トンボとして読んでいたので、後からドラゴンフライに変わってちょっと残念。トンボを英語でいうとドラゴンフライなんだ、と知った時にあ!って気づくのも楽しいのではないかと思ったけれど、最初からドラゴンフライで読んだ方たちは名前から漂うドラゴンの気配をどう感じたのだろう。

・ギリシャ神話(パンドラ)のようなところも出てきて面白い。

 

全般について

以下清水

「恋愛、家族愛から国の統治まで広いテーマが詰まっている。」

「戦争を生き延びるよりも平和を生き延びる力の方が大事、だがむずかしい。」

「ル=グィンはセセラクが大好き、くるぶしの描き方などからも分かる。こういう人に未来を託そうとしているようだ。(清水→セセラク奨学金を作った。)」

「最後の最後の場面がとても好き。なんでもない何処にでもある場面を最後に持ってきたことに大きな意味がある。→これって意志して無名を勝ちとる物語だったんだなぁ・・・と思う。私たちは意志しないと有名を勝ちとってしまう。その意味で第6巻は必要だった。逆に、ここまで来るのに1〜5巻の、涙あり苦闘あり嵐ありの長い年月が必要だった。」

「私たちの普通の平凡に見える暮らしの中にもこれと同じことがある。トルストイは幸福な家庭はみないっしょだなんて言っているし、ル=グィンも幸福について書くと途端に周りからは批判がくると言っているが、実はつましい平凡な幸福の中にもドラマがいっぱい隠されている。」

以下、参加者からの感想ですこれらは会が終わってから、参加者に寄せていただいたものです。

その1

とうとう最後の日になってしまったことに、充実した思いと、ちょっぴり寂しさも感じます。
しかし、先のレポートでも書いたように、なぜか心の内にアースシーが根付いているようで、消失感などはなく、これからどんな変化を遂げるのかという楽しみさえ感じています。
会の最後の方で、清水さんがセセラクの足首の描写のところの話をされました。実はわたしもドキっとした箇所でした。あとレバンネンと初めてまともな会話をした時、レバンネンの息子たちが竜になり、竜の王さまになるようにと伝えるセセラクがわたしはとても好きでした。
でもあの場でセセラクの話はまったくしませんでした。
なんともったいないことをしたのだろうと気づいても後の祭りです。
大事なことは、大きく見えることではなく、そういう小さなことが積み重なっていくことなのだと思いました。

その2

最後の会だというのに、ドラゴンフライの、途中までしか読みきれず、でも、その場にいるだけでもいたい、という気持ちで、参加させていただきました。ありがとうございました。

やはり、ちゃんと読んでいなかったので、色々な方の話を聞きながら、そんな場面があるんだなぁ。と思いつつ、話されてる内容になんとなく共感していても、それは本当にかすかな感じで、ああ、やっぱりちゃんと読んでおけば良かった!と悔しい気持ちと、よくはわからないけど、心に留めておこう、という気持ちと一緒に聞いていました。

その後、少しずつ読みながら、ああ、あのとき言われてたのは、ここの事かな。とこの間のみなさんの言葉が何度も浮かんできました。

それから、もう1つ、なぜかいろいろな場面で、特に竜と人間が昔一緒だったときのはなしを繰り返し色々な場面で見るたびに、星野道夫の本に出てきた、イヌイットの、「魔法のことば」という詩がずっとぐるぐるまわって、自分としてはすごく繋がるなあと思っていました。

会の中で世界が破滅に向かっている「アースシーの風」や「ドラゴンフライ」の様子と、現実のこの世界の出来事(特に9.11を境にして)が重なる。まずは一度壊れてから作り直す事が必要なのかもしれないとうことが話題になっていたことが印象的でした。

世界の事、と考えると難しいけれど(壊れてしまえばいいとは簡単に言えないけれど)、自分の中のことで考えると、自分の中のずるずるとしがみついたり引きずったりしていることで大事にしなくちゃいけない事が見えなくなったとき、一度全部壊れてもいいくらい思い切った方がいいような事がある。でも、そのときに壊れるべきものは壊れるし、本当に大事なものは壊れないような、そういう事があるな。そういう感じと似てないかな。と(全然規模は違いますが)思ったりしながら、ドラゴンフライやアースシーの風を読みました。

そんななかで、眠れないハンノキにハイタカが、一晩中きにかけて手を当ててくれた場面。ハンノキを丘の斜面に近づけないでおくのは、魔法の力なんかじゃなくて。生きている人間の手ではないか と言う場面(人間だけでなく動物のぬくもりも)が、自分にとってとても腑に落ち、希望がもてる場面でした。

三回の会で清水真砂子さんにお会いでき、お話を聞き、沢山の方々と一緒にその時間を共有できたこと。1つの本を読んで沢山の人の目線からじぶんだけでは気がつかない沢山のことを考えられたこと、本当に貴重な時間でした。

やはり、まだまだまとまってはいませんが、少しずつ消化して自分の中に落としていければと思います。

ありがとうございました。

 その3

先日の哲学する会はとても有意義でした。ゲド戦記の読書体験が、あの会でぐっと深まりました。また、翻訳といえど、その表現の豊かさ深さに感銘を受けていたので、直接、清水真砂子さんにお会いできたことも嬉しかったです。一巻のあたま、オジオンの山の逍遥、散歩でなく逍遥という言葉からまず気に入り読み出しました。やはり、翻訳という作業は、頭だけでなく体や思想や体験やらを総動員し、注意深く言葉を選ばれていることを教えて頂きました。まだ6巻まで読み終えていないのですが、「無名であることを勝ち取っていく物語」壮大でありながら普遍なことであり、自分自身や両親や祖父母の人生なども振り返りながら読み進めています。良書はひとりで読むだけでは勿体ないですね。考えを深めたり、違う視点に気付いたりすることが出来た有意義な時間でした。有難うございました!

 その4

今回もこれでもかというくらい『ゲド戦記』の奥深さを思い知らされる(?)読書会となりました。参加できて本当によかったと思いました。

自分だけで読んでももちろん面白かったのですが、読書会を通じ、自分ならスッと読み進めてしまう個所にこだわったり、感じ入ったりされている方がいらっしゃるのがとても新鮮でした。もちろん、『ゲド戦記』がそうした読み方に耐えうる豊かな作品であるからこそなのですが。

さて、今回特に新たに思ったのは「アースシーの世界の広がりとその細部にまでわたるリアル感について」でした。

私は第5巻(『ドラゴンフライ』)を丁寧に読んでいくことで、アースシーの世界の空間と時間軸が見事に構築されていることには気づいていましたが、なぜそこまで、ということはよくわかっていませんでした。

でも皆さんの様々な考えや思い、そして清水さんのお話しを伺ううちに次のように考えるようになりました。

「私たちの生きる今現在の世界」を読み解きながら、ル=グウィンが伝えたいことを表現するために、ひとりひとりの登場人物やもの、場所、出来事が一つとして欠かせなかった。だからそれらがどんなに空想的であっても、存在としてのリアル感が必要だったのだと。

清水さんのおっしゃった「意思して無名を勝ち取った人間の物語」を書き切るには、これだけ膨大できめ細かな世界が必要だった。そのため読む方としては、読むたびに新しい発見をし、豊かになっていけるのだと思います。

3回を通して感じたことをまとめてみたいと思いながら、手を付けることができなかったので、取りあえず、今回の感想をお送りします。

 その5

今回もまた、とても充実した時間を過ごさせていただきありがとうございました。今回は、翻訳の大変さについて学ばせていただきました。

 4巻『帰還』の翻訳についての清水先生の話は、衝撃でした。この『帰還』にテナーが夕食の片づけをしない火花に向かって「ゲドだってするのよ。」のいう一節があります。この部分を、先生は始め「ゲドだってしてくれるのよ。」と訳されたそうです。しかし、この訳では物語の世界が壊れてしまうと考えて、「ゲドだってするのよ。」と直されたそうです。「する」と「してくれる」、うっかりすると読み落としてしまうような微妙な違いですが、その違いは大きいです。「してくれる」という言葉の裏側には、「本来は女性の仕事である後片付けを、男性のゲドが気を遣ってわざわざやってくれる。だから、私はこのことに対して感謝しなければならない。」という意識があるからです。これは、作者ル グィンの柔らかなフェミニズムとは、かけ離れた意識だからです。先生は、このことを例に挙げてお話しされましたが、こういう言葉〜つまり、翻訳家の意識が試されてしまうような言葉〜が、『帰還』には「地雷のように埋められている」のだそうです。 私自身、物語の内容と共に表現を読むことの大切さは解っていたつもりでしたが、正直このレベルまで気を付けて表現を読んではいなかったように思います。単に情報の一つとして物語を読むならば、粗筋を読んでいくという読み方もありだと思います。しかし、こういう話を伺うと、自分の感性のレベルを上げて、表現の面白さを味わえるようになりたいとつくづく思います。

 このことが一番の感動だったのですが、もう一つ印象に残ったのが、「『ゲド戦記』は、意図して無名を勝ち取る物語」という言葉でした。私の身の回りを見ていても、退職後も元に地位にしがみついているかのように見える人たちがいます。退職したら、後は自分として生きればいいのに、そういう『自分』〜ゲドのように自分のパートナーと日々の生活を愛おしんで生きていくような自分〜が、ないのでしょうか。先生は敢えてここで「勝ち取る」という言葉を使われましたが、それは勝ち取りにいくという困難を避けては手に入らないという意味で、とてもいい言葉だと感じました。もちろん、ここで戦うべきは「自分自身の凝り固まった観念」だと思うのですが。

蛇足になりますが、前回、自分の感性を蘇らせてくれる先輩のことを書きましたが、考えてみると、この先輩も、「意図して無

名を勝ち取」った人だと思いました。確かに、この先輩のお宅には、『アースシーの風』の最後の場面のゲドとテナーのようなお互いを慈しみ合うような空気が漂っています。こういう素敵な人と自分がつながっていることの幸せも感じました。

 自分の幅が広がるとても良い機会でした。できるだけ都合をつけて、次回も参加したと思います。(小学校教諭)

PS 今回、中学生のお嬢さんが参加していました。とても新鮮な感じがしました。原書まで持参されたことからも並々ならぬ情熱を感じました。こういう若い世代に、『ゲド戦記』が引き継がれていることがわかり、そのこともとても嬉しく思いました。

その6

男女共に力を合わせて世の中をよくしようする“手の女たち”の存在が印象的でした。アースシーでも、私たちの世界でも、“手の女”の存在はとても重要で、生活や命に関わる大切な部分で大きな役割を担っているように思います。なのに、どうして隅に追いやられてしまうのでしょうね。

これは余談ですが、先日、ある読書会に参加して、ラノベのような軽い読み物が好きという数人の方とご一緒しました。その会で、主人公がものすごく都合よく姿を消すので、その辺りをもう少し描いて欲しかったという意見が出たのですが、いとも簡単に「ファンタジーだから」で片付けられてしまい、密かに憤慨していました。

ファンタジーって、上手く説明出来ないことを魔法の杖で片付けちゃうようなものではないですよね。ゲドと魔法と均衡のことを思い、軽々しく「ファンタジー」という言葉を使って欲しくない!と思いました。ファンタジーは、舞台は架空の世界かもしれないけれど、本当のことが書かれていると思います。(小学校図書館司書)

その7

前回もそうでしたが3班に分かれて話し、様々な年齢、経歴の方が集まっての密度の高い内容になり良かったと思いました。

私は実は『ドラゴンフライ』の「カワウソ」の後半の女性モエサシと切ない恋に落ちる場面や、「ドラゴンフライ」のアイリアンの粗野なところ、若いゾウゲとの会話、女人禁制ろロークの魔法学校に入ろうとする気持ちとか・・・も大好きです。その後の様式の長の格好良さと併せて(この2人の関係が気になることも含め)、もっともっとこの辺を皆と語りたかった(笑)。でも「ゲド・・・」の大きなテーマではないだろうと会では遠慮していました。でも、ということはル=グィンがキャパが広い、大きな守備範囲を持った人だということで、会で話題にならない事でも皆がどの部分に関心が向くのかも興味深いところです。

さて、今回私は会のために「ゲド・・・」を再読して、清水さんが以前からおっしゃっている「日常の暮らしが大切」だということや「平和を生き延びる力の大事さ」ということ、「生理から発する言葉」を意識し、感じながら読むことができたような気がしました。どこが?ということではなく、ゲドの特に4〜6巻がそうだなと思います。他のファアンタジーを楽しむ時とは測るもの差しを変えないと楽しめない部分がある、そう感じながら読んでいくと腑に落ちるところが沢山あったと思います。

そして、恐らく、6巻の最終章は2001年の9.11同時多発テロ以降に書かれていると私は推測するのですが、9.11があってもなくても、これからの世界に対して「別の風」を吹かせるための大きなメッセージが込められているなぁと思いました。

でも、それは政治的なショーの中にではなく、日常の積み重ねの中、普段からの生活や人との対話の中にあるだろう、女性の持っている太古からの力などが大事な役目を果たすのだろう・・・と漠然とですが希望を感じながら読み進むことができたように思いました。「私たちは壁を壊すことは難しい、けれども窓を開けることはできる」(オノ・ヨーコ)。まず、「別の風」を入れるために窓を開けることからはじめたいと思います。(百町森・柿田友広)

事前に参加者から送ってもらった印象に残ったところ

4巻『帰還』

 岩波少年文庫版「帰還」243ページ

レバンネンはなにごとにも真剣で、きまじめで、自分の地位が求めてくる形式という鎧に身をかためていた。が、誠実で純粋なゆえに、ひどく傷つきやすいところも持っていた。テナーはそんなレバンネンに心ひかれ、いとおしさを覚えた。この若い王は自分ではすでに十分つらい目にあってきたと思っているが、この先ずっと、何度も何度もつらい目にあうことだろう。しかもそれを、ひとつとして忘れることはないにちがいない。

  この若者はだから、ハンディのようにいい加減なことをする事はないだろう。

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四巻は、テナーの言葉や考えに自分はどういう答えを持っているだろうかと自問することが多い巻でした。納得しつつも所々愚痴に聞こえたり、女性でないが故に体で理解できない自分にもどかしさを感じたりしながら読んでいた中、この言葉には感激しました。最後の一文は何度も反芻し、こうやって人を見ることのできるテナーに嬉しく感じるとともに、テナーの半生あっての言葉になお一層の共感を覚えました。

ゲド戦記の後半を読んでいて頭の中に浮かんできたテーマは「信頼」でした。

正直なら信頼できるわけではない。正直さはどこで見るかというと、その人が自己の負の部分をどれだけ引き入れているかというのが私が常々感じているところです。

テナーのフレーズはまさにそれを示すものであり、人が生きていく中での大事な芯として読めました。

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その後五巻を読んでいると何と「信頼」がキーワードとして出ており(98頁)、びっくりしました。

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p.344  「女は信頼するように教えられている?」・・・「いいえ、信頼なんてまるで。」

 

自分自身の社会経験において、信頼に力を与える人間関係、上下関係は男性的と感じていたことを思い出した。こいつは信頼できると判断すると、一歩踏み込んで会話をし、チャンスを与える。相手が困っているときはフォローし裏切らない。この感覚が横行している。

 

少なくとも私は、信頼できるかという視点ではなく、体験の共有や共感で女性同士の友人関係を築いてきたところが多く、会社の中で信頼を積み上げていく関係、またそのようにして力を上げていくことを学んだように思う。

 ただ、退社してみれば、会社の肩書きがある上で、同じ目標あって与えられる信頼が大部分。信頼は、肩書きやレッテルにとても影響されやすいとも思う。ただ、真の力は信頼のなかにこそ見出されるのではというテルーの前向きさには共感したし、今後の女の人生後半戦へのヒントになる気がした。

 

魔法使いが対象物の真の名前を知ることで力を及ぼすというのは、相手を理解することで真の信頼が生まれることにも通じるように思う。

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5巻『ドラゴンフライ』

アニエブという女性の存在。(「カワウソ 2カワウソ 3アジサシ」より)

ハードp81文庫p98「秘密をあかしてもらっていいんですか?」少しの間をおいて、カワウソはたずねた。「だって、もうご存知よ。あなたはそれをアヤメにくださった。あの娘もあなたに差し上げた。信頼です。」

ハードp114文庫p137「あの女(ひと)はわたしに自由をくれたのです。」メドラは言った。「わたしは今でもまだ、何をしても、それは彼女を通して、彼女のためにやっているような気がします。いや、彼女のためじゃありませんね。死んだ人のためにできることなんてありませんから。そうじゃなくて・・・・・・。」

「わたしたちのため。」モエサシが引き取って言った。「殺すことも殺されることもなく、ひそんで暮らしている私たちのため。死んだ人は死んだ人だし。権力を持ったお偉いさんたちは、誰にも邪魔されず自分たちの思いどおりに生きていくし。どうということのない無名の人びとのなかにしか、希望は残っていないと思うわ。」

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メドラ(カワウソ)がアニエブに対して思っていた気持ちが切ないほど伝わる。

その後、モエサシと恋に落ちるところ文庫p134もどこか切ない。

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様式の長の存在、態度、言葉(「ドラゴンフライ 3アズバー」より)
ハードp368魔法使いはもの静かな男だった。内に激しさを秘めていたが、アイリアンには一度たりともそれを見せることはなく、彼といると、森の木々や、時おり姿を見せる鳥やけものといるように、心が安らいだ。
前もって言っていたように、彼は彼女にものを教えようとはしなかった。ふたりで逍遙するこのふしぎな森のことをきくと、・・・木々の根っこにはありとあらゆる魔法がひそんでおり、またその根っこはかつてあった森や、これから誕生するかもしれない森の木々の根っことつながっているんだよ、と話してくれた。
ハードp369「私の言葉など無に等しい。木の葉の音を聞いてごらん。」と言った。彼の言ったことで教えと呼べそうなのはそれだけだった。
ハードp370「外より内がずっと大きい」

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この人が格好いい。どこか東洋思想的、あるいはヒッピーのよう。

 

魔女のバラとの会話(「ドラゴンフライ」より)
ハードp325力を持つってことは、好き放題に人を動かしたり、金もうけしたりすることじゃないんじゃないの?

カゲロウの言葉(「カワウソ 3アジサシ」より)

文庫p108「・・・様式にのっとらなければ、物事は正しい方向に進まない。自由はそこにしかないんだからね。」魔法使いヘムロックの言葉(「ダークローズとダイヤモンド」より)

ハードp191「均衡を保つんだ。それ以外にない。」「大事なのは知識、秩序、抑制」

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2001年の9.11を予言しているよう。

 

文庫p142ロークの魔法学校ができるところ。(「カワウソ 3アジサシ」より)

 

文庫p424〜7アイリアンとゾウゲの会話が面白い。アイリアンが愛らしいし頼もしい。(「ドラゴンフライ 2ゾウゲ」より)

ダークローズとダイヤモンド

父親のゴールデンの考え方や価値観など、共感できることはあまりなかったし、最初、あまりすきじゃないなあと思っていたけれど、読み進めていくうちに、ダイアモンドへの不器用な愛情を感じた。何だかピントがずれているけれど、深い愛情。

ダイアモンドを魔法使いのもとへ送り出すとき、帰ってきたダイヤモンドを迎えるとき、予想していたゴールデンの反応や言葉と違い、あれ?あれ?と、自分の中のゴールデン像が代わって行った。

そして、p267 最後から4行目から、

、ダイヤモンドが出て行ってから、ゴールデンの商売はかつてない繁盛ぶりを見せた。…

ゴールデンはしかし息子を許さなかった。許せば幸せな結末を手にできたかもしれない。だが彼はそうしようとはしなかった。あんなふうに出ていくとは。…      というところ。利益を最優先して、お金になるかどうかを物を考える基準しているように見えていたわたしのゴールデン像が崩れた。ゴールデンは息子にそばにいてほしかったんだな。大きな愛情を感じた分、ああ、何だか悲しい話だなあと思った。魔女に対する軽蔑の気持ちを捨てられたら、「幸せな結末」だったかもしれないとも思ったが、それはゴールデンにとって難しいことだったのかもしれない。

p268トゥーリーは長い間、夫と苦しみを分かち合った。

トゥーリーはそんなゴールデンの不器用さを分かって共感はできなくても愛していたのかなあと思う。

最後の

しあわせな結末とは言えなくても、それは、至福のひとときだった。つまるところ、これ以上何を望むことがあったろうか。

という終わり方になんだか救われる気持ちになった。

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「地の骨」

ゲドの師であるオジオンの若かりし頃の話。そういえば、オジオンが大地震を沈めたことはこれまで物語の中で話されてきていた。オジオンが大魔術師と称される由縁。読み進めるうちに自分の記憶から紡ぎだされてきたのは懐かしさと安堵感。人里離れた台地にひっそりと暮らすオジオン。傷つき、疲弊した者がその体と魂を癒すために幾度となく物語に登場する小さな小屋。自分も行く末はオジオンのような暮らしをしてみたい。

 

その身を大地と一体化させ「地の骨」に寄り添い落ち着かせ、地震を鎮めたオジオンの師へレス。人は皆死して尚、大地となり風となり海の一部となって残された者たちの生命を支えていく。その体を形作ってきた成分は分子や原子に戻り、地球を構成する成分に姿を変え、この生命の星を守り続けている。今は姿なきへレスもオジオンもやがてはゲドもそして私たちも。

今の私たちは、残される者たちに果たしてどれだけの思いを馳せているのだろうか・・・今、世界で起こっている事柄は責任の先送りばかり。後世への慈愛は引き継がれていくのか?そんな焦燥感にかられます。

〜おまけ〜

へレスの師匠が魔女だったことに、グウィンの想いを感じました。

 

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6巻『アースシーの風』

 

●文庫p18ゲドの言葉「昔はなんでも急いでしなければと思ったものだが、そんなことはそうそうないからね。」

●文庫p24自分をとりまく暮らしの風景が毛布のようにからだを包んでくれる。

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日常の厚味を感じる。

 

ハードp316 アイリアンの言葉 

「不滅の生命ですね。」・・・セペルが・・・。「しかし、どこに? どこにそんな国があるのです?」呼び出しの長がきいた。

「別の風の吹くところ。西の果てのそのまた西よ。」アイリアンはそう言うと、怒りとさげすみのこもったまなざしで一同を見まわした。「あなた方はわたしたち竜がこの世の風にだけ乗って・・・

・・・・・・・・・・・・
黄泉の国ではなく西方浄土のような所?

 

ハードp308 レバンネンの言葉 

賢人中の賢人といわれた方は予言されました、世界は大きく変化すると。わたしたちは力を合わせて、なんとかしてさぐりあてなくてはなりません。どんなことが起こるのか。原因は何か。事が起こったあと、世界はどこに向かおうとするのか。どうしたらわたしたちは戦争と破滅から協調と平和への方向転換をなしうるのか。・・・

ハードp336 様式の長の言葉 

「つくられたものはこわされ、こわされたものは全きものとなりましたな。」

・・・・・・・・・・・・
これは9.11以降に書いたのか?

 

ハードp342 6巻の終わりの部分、全6巻の終結部分
テナーは疲れていた。こんなとき、・・・おいしい赤ワインの入ったグラスを手に、ゲドとすわっていられるなんて、なんとありがたいことだろう!
・・・・・・・・・・・・
ゲドはこんなふうに話すテナーの顔をにこにこしながら見ていた。ゲドのこの包みこむような、やさしい笑顔は、思いこみもあるかもしれないけど、でも、たぶん間違いなく、わたしだけしか知らないものだ、とテナーは思った。
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「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ。」ゲドは言った。
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「ねえ、私の留守の間、何してた?」テナーはきいた。
「家のことさ。」
「森は歩いた?」
「いや、まだ。」ゲドは答えた。

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全6巻の最終章の終わり方 泣けるほど嬉しくなる。森に散歩に誘うテナーがいい。

「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ。」とはどういう意味か?

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70p 左から4行目

「いいほうに変わるといいですね。」とハンノキは言った。

「そうだな。」老人は言った。「だが、とにかく、変わらずにはいまい。」

 

その前の70p左から7行目には、アイハルが亡くなる間際に『何かも変わった。変わったんだ。』

というシーンがある。

ゲド戦記5『ドラゴンフライ』の138p右から5行目の箇所でヴェイルが「ロークではあらゆる魔法が強い。(中略)ここは安全だし、強盗も人殺しも目をつけたりしない。だってここにはお偉いさんなんてひとりもいないから。そのうち、いつか、竜が加わってくれましょう。千年後のことになるかもしれないけれど」

わたしは順番として、アースシーを読んでからドラゴンフライだったこともあり、このヴェイルの予言のような発言を読んだ時に、結末までの流れが一本の道でつながりました。

 

●97p左から9行目から97p最後まで

ハンノキはなぜ自分のようなものがこんな荷を背負うことになったのかと死者として選ばれたことをずっと訝しんでいる。しかしハイタカがこうこたえている。

 

しばらくハンノキの顔を見つめたあと、真の名前で呼びかけて、言った。「ハラ、たしかに世界は広く、謎に満ちている。だが、わたしたちの心のほうもそれよりもっと広く、もっと多くの謎に満ちているんだよ。ときにはそのことも考えてみるがいい。」

 

●『再結集』でもやはり道案内はハンノキだった。

このシーンの時に思い出したのが『さいはての島へ』での226p 7行目

「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある。」

結局、アイリアンも、テハヌーも、ハンノキも石垣を壊すために重要な役割を持っていたのは

この無垢な人たちなくしては、始まらないし、終わりもしないと考える。

 

●あとなんといっても、『再結集』の最後のゲドとテナーの会話がとてもいい。

こういう終わり方でよかったと思う。

 

もうひとつ。

『ドラゴンフライ』でも感じたが、アズバーは、アイリアンに、またはアイリアンもアズバーに恋をしている。

 

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 言葉を越えるもの 言葉(の違い)が妨げるもの 

・ハンノキに与えられた子猫ヒッパリ

・竜の言葉…シンバルのよう

・テハヌーは、ハード語と竜の言葉

 テナーは、ハード語とカルカド語(テナーにとっては故郷の言葉 P270「失われた子ども時代のすべてをよみがえらせてくれるカルカド語」

しかしテナーは言う「P137テナーは自分があんなハートハーのような、後れた未開の島に生まれなくてよかったと思った。…ハブナーにいる間は私があの子の力になってやらなくっちゃ」→ずいぶん上から目線な見方。

 

・セセラク・・・カルカド王国の王女なのでカルカド語

        ハード語を話す人々を「呪われたまじない師たち」P193

        テナーにハード語を学ぶよう言われる(P198お互いの言葉ブツブツバガバガとしか言えないとしたら)

 

・「分割」と「統合」?「分割のままの共生」?

P234竜は、自由と火と風を選び西へ。人は、くびきと水と大地を選び東へ。

(石垣が崩れて死者に永遠の眠りがもたらされた時の場面)P369中ほどの呼び出しの長ブランドが「ブランドは竜のことばを天地創造のことばにしてくり返し、それをさらにハード語に置きかえて、言った。「分割はいま分割を見た」

様式の長「つくられたものはこわされ、こわされたものは全きものとなりました」

 

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『ゲド戦記』4〜6巻では、全体の中でも4巻、6巻が今までは心に残っていましたが、

今回読み直してみて、5巻『ドラゴンフライ』に強く引き込まれました。

 

以前に読んだ時にはいわゆる「外伝」として本編を補い、支え、彩る5編のような感じで楽しんだのですが、今回はこの5巻を読むことで、『ゲド戦記』全体が豊かに感じられるように思いました。

 

今回は「まえがき」から注意深く読んだためかもしれません。

  5巻P9、ℓ10「『帰還』が出版されて7,8年たった頃、私はアースシーを舞台にした物語を書かないか、と言われた。ちょっとのぞいてみると、私が見ていなかった間に、アースシーではいろいろなことが起きていた。もどっていって、「現在」何が起きているのか、見きわめなくては、と私は思った。それに、昔、つまりゲドやテナーが生まれる前に起こったいろいろなことも知りたくなった。アースシーのこと、魔法使いのこと、・・・・略・・・・知りたいことが次つぎと出てきた。今現在のことを理解するためには、歴史も勉強しなければならない。私は多島海の古文書館にしばらくこもる必要があった。」

 

そして巻末の「アースシー解説」。このようにして壮大で豊かな物語が構築されるのだと感動しました。(いくつかの言語の語源からの考察というのには驚いてしまいます!)

 

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名称:
子どもの本を読んで哲学してみませんか?・・・ ル=グウィン著「ゲド戦記」をより深く楽しみ考える
開催日:
2018/8/04(土)
時間:
18:30〜20:30
場所:
百町森 プレイオン
料金:
一般2,500円 会員、中・高生、学生2,000円(税込)

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