15 『好きッ!絵本とおもちゃの日々』誕生の秘話
さて、ここで『コプタ通信』のことに話を戻します。相沢康夫の「黄い太ちゃん」は86年2月が最終回というわけではないのですが、その後現れなくなります。そして、この年の4月からは通信の題名を『親と子』に変更します。これは、私のちょっとした野心からだったのです。今思い返すと恥ずかしいのですが、通信を百町森のPR誌という事に留めないで、ミニコミとか公報のような性格にし、通信を親しい園などでも配ってもらおうとしたのです。自分のしていることを、もう少し幅広い人に認めてもらいたい一心でした。しかし、実力も政治力も伴なっていませんでしたから、このモクロミはすぐに失敗、気負っていた分、この頃企画したイベントはいつも以上に赤字という惨憺たるものでした。
結局、内容はすぐ元にもどったのですが、名前だけはしばらく『親と子』で続きました。
この頃、相沢が運転手をしていた移動図書販売車「プークマ号」に関してちょっとしたエピソードがありました。島田市に住む漫画家の法月理栄 さんは「プークマ号」のお客さんでした。当時、法月さんがビッグコミックに連載していた「利平さんとこのおばあちゃん」という漫画に「プークマ号」を登場させてくれたのです。法月さんは『親と子』1号で私たちのインタビューに答えてくれていて、「子供といると感情が豊かになり、作品にも反映する…。」と言っています。そして、このことが私に大きなヒントとなって、「黄い太ちゃん」の連載が止まっていた相沢氏に「今度は自分の子育てのことを漫画にしてみたらどうか。」と勧めました。
それに応えた「子育て絵日記・絵本とおもちゃの日々」は89年8・9月号から始まりましたが、この頃には樋口正春氏を通してのおもちゃとの出会いもあり、この連載にはネフ社のおもちゃとの出会いがストレートに出る結果になりました。そして、これはエイデル研究所の編集者の目にもとまり、同所が出す『げ・ん・き』という雑誌にも同時連載になりました。
それから5年後に、今も皆さんに愛されている『好きッ!絵本とおもちゃの日々』という単行本になったのであります。
(コプタ通信2005年07月号より)