アレックス・ランドルフさんのご命日によせて
今日4/27は、偉大なテーブルゲーム・デザイナー、アレックス・ランドルフさんの13回目のご命日です。
2004年に亡くなったアレックス・ランドルフさんは、テーブルゲームのデザイナーとして多くの作品を残しました。2002年10月のエッセンの「Spiel」では、80歳を記念する特別展示があり、夜のパーティーでは参加者からお祝いされ、多くの人から慕われた長老的存在でもありました。
アレックス・ランドルフとは?
ランドルフさんのことを知るには、彼の伝記である「Die Sonnenseite(陽のあたる場所)」をご覧いただくのが一番良いのですが、なかなかのボリュームの労作ですし、ドイツ語版なので(笑)、箇条書きでまとめてみます。
- チェコに生まれ、ベニスで育ち、スイスの寄宿学校で少年時代を過ごした後、シカゴ大学に行き、従軍してアフリカへ。終戦後オーストリアを経て、ボストンで広告の仕事をしたのち、ローマへ。突発的に、妻と日本に渡って将棋を学んだのち、再びベニスに戻ってゲーム作家として長く活動し、そこで永眠した人
- 4ヶ国語(伊、英、独、仏)を自由に操る人
- 100を超えるゲームを商品化した人
- 16の作品が年間ゲーム大賞(Spiel des Jahres)もしくはノミネートもしくは推薦リストに選ばれた人
- 「ゲーム考案者(作家)」という役割を考案した人
- ゲームのパッケージに作者の名前を入れさせた人
- 1966年から1972年の6年間、将棋を学ぶため日本に滞在した人
- ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を現実に生きた人
- ナイト跳び(桂馬跳び)に魅入られた人
- 今なお販売されている「Twixt」(1962, 3M)の考案者
ランドルフ略年譜
「Die Sonnenseite(陽のあたる場所)」から抜き書きしたもの。これまで、掲載していた年譜と異なりますが、こちらが正しいと思われます。ゲームの発売年は略。
年 | 年齢 | できごと |
---|---|---|
1922.5.4 | 0 | ボヘミア地方でアレックス誕生(現在のチェコ) |
1924 | 2 | ベニスに定住 |
1932? | 10 | スイスの寄宿学校 |
ベニスのギムナジウム | ||
1938 | 16 | 両親はコロラドの農場へ |
アレックスは「ナンセン旅券」で渡米 | ||
1940.9? | 18 | シカゴ大学入学 |
1942.12 | 20 | 大学3年を中断して従軍 |
北アフリカ(カサブランカ→アルジェリア)へ | ||
1945 | 23 | オーストリアで終戦を迎える |
1952 | 30 | ゲアトルーデ(妻)と出会う |
1954 | 32 | 「ネリーのおはなし」執筆 |
1954 | 32 | 最初の出版物「郵便船」 |
1955.6 | 33 | 母マリー死去 |
1958.10 | 36 | ウィーンの「カフェ・ハヴェルカ」で友人のフォイアシュタインに「Twixt」のアイデアを見せる。 |
1959? | 37 | ボストンで広告代理店の編集者として働いている間に、ペントミノを再発見 |
1961 | 39 | 最初のゲーム「Pan-Kai パンカイ」発売 |
アレックスとゲアトルーデ、ローマへ | ||
1962 | 40 | 「Twixt トゥイクスト」発売 |
1966 | 44 | 将棋を学ぶため日本へ |
1972 | 50 | ベニスへ |
1982 | 60 | 「ザーガランド」が年間ゲーム大賞受賞 |
2004.4.27 | 81 | ベニスにて永眠 |
私たちにとってランドルフさんが特別なわけ
もうかれこれ15年以上前、ゲーム好きのお客様からゲーム専門店「メビウスゲームズ」さんをご紹介いただきました。当時、百町森のゲームの品揃えは子ども向けのゲーム(ラベンスバーガー、アミーゴ、ハバ、セレクタなど)ばかりでした。
私たちは大人向けの本格的なゲームに関しては全くの素人で、メビウスさんのゲームカタログを読んで勉強しました。その中で強烈だったのは、「ゲームにも作者がいるんだ!箱の表に作家の名前が書いてある!作者に注目すると面白い。」ということでした。
もちろん私たちはすでにネフ社の積み木を愛しており、パッケージに必ずデザイナーの名前を入れていることも、素晴らしいことだと考えていました。それなのに、ゲームに関してはそこまで気にしていなかったので、あらためて、「ドイツってスゴい!」ということになったのです。つまり、ドイツではゲームにおいても作者が尊重されている、すなわち本と同じように文化として認められている、ということに感激したのです。
そして、メビウスさんのラインナップの中から、私たちでも楽しめそうな「オートレース」「トップバナナ」「ヒューゴ」「ザップゼラップ」「穴掘りモグラ」「チャオチャオ」「ガイスター」などを仕入れ始めました。相沢はすでに「ガイスター(当時はファンタスミ)」の面白さを知っていたので、これが扱えるようになったことを大変喜んでいました。
メビウスさんに教わった通り、作家を意識するようにしたら、相沢イチオシの「ガイスター」のほか、「オートレース」も「チャオチャオ」も、アレックス・ランドルフさんの作品ということがわかりました。
ドイツのゲームデータベースサイト「luding.org」で調べてみると、ものすごい数の作品がヒットし、それらを丁寧に調べていくと、当時すでに扱っていた子ども向けゲームの中にも、ランドルフさんの作品がいくつもあることがわかりました(テンポかたつむり、ファンタスト、おさんぽゲーム・てんとう虫、ハンドインハンドなど)。この時の痺れるような感激は今でも覚えています。この時点で「この人はすごい!大人のゲームを作る人なのに、私たちが扱っているような子どものゲームも作っている!」と、私たちの中でランドルフ愛が芽生えたのです。
そして、2001年に「こぶたのかけっこ」が発売されました。こぶたが「おんぶして進む」というアイデアと、その面白さに私たちはノックアウトされ、ランドルフさんの存在はものすごく大きくなったのです。
もちろん、ドライマギア社(ベニスの運河、オートレース、チャオチャオ、ツェ・クヴェオ!)やラベンスバーガー社(ザーガランド日本語版、はげたかのえじき日本語版)の多彩な作品も、大きな魅力でした。
ランドルフさんの死
2003年9月には、社長の柿田がランドルフさんに会いためベニスに行ったのですが、入院中でお会いできませんでした(ランドルフさんを訪ねてベニスへ)。奥さんのゲアトルーデさんにはお会いでき、帰りの飛行場で、なんとかランドルフさんと電話でお話しできました。
回復をお祈りしてましたが、大変残念なことに、翌年2004年4月27日にお亡くなりになりました。ドイツゲーム界は哀悼の意をあらわしました(2004年の記事「ランドルフさんご逝去」)。
その時、ランドルフさんと非常に親しかった(弟子とも言われる)ゲーム作家レオ・コロヴィーニ氏の追悼文に「ゲームの箱に自分の名前が印刷されていることに名誉と喜びを感じる人はみな彼に感謝している。」と書いてあるのを読んで、私たちは初めて知ったのです。メビウスさんから教えてもらい感激した「ゲームの箱には作家の名前が書いてある」ことは、なんと私たちが敬愛したランドルフさんが始めたことだったと。なんという巡り合わせでしょう!
彼が亡くなる直前、友人のヨハン・リュッティンガー氏(ドライハーゼン社長、前ドライマギア社長)に「私のゲームが生き続けるか心配だ」と話されていたそうです。
ランドルフ感謝祭2017
アレックス・ランドルフさんへの感謝の気持ちを込めて、彼のゲームを楽しもう。その様子を天国のランドルフさんに見てもらおう。彼の作品をあらためて見直してみよう。そんな思いで、ご命日の4月末から誕生月である5月にかけて以下の催しを開催します。
- 第5回ガイスター大会:ランドルフさんの代表作「ガイスター」の大会をやります。
- アレックス・ランドルフのゲーム展:百町森店内の展示コーナーで、彼の作品を展示します。