'10年に出た印象に残った本
その8 本の虫、不器用な日々
この2冊は「日常を散策する」シリーズの1と2である。
著者が1976年に書いたものから短大の最後の授業の講演録までで、今まで単行本に収められていなかったものが掲載されている。
日常を散策するのシリーズ
1『本の虫 ではないのだけれど』
2『不器用な日々』
各本体1900円+税
清水真砂子著
1の『本の虫 ではないのだけれど』は青山学院短大の最終講義から始まる。
実は私はこの授業、早起きして娘と聴きに行った。そして分かってはいたことだが、清水は私の読書の道案内人だったんだなと改めて思った。大学の先生をしていた32年(非常勤を入れて34年)というのは、私が子どもの本屋をやってきた時間とピッタリだぶる。ちょうど私の読書歴、子どもの本屋歴を振り返っているようだった。そして、ここで清水は「子ども時代の私にとって、本は(世界を知るための)窓だった」という。
「世界との幸福な出会い」の章では本は「信頼の糸をたぐりよせ」るものだとも。
また別の章では(学ぶことに対して)「自由になるために」学ぶのだという。
(子どもの本の役割などについては2の最後の章でさらに堀りすすめているがそれはまた。)
どれも皆すごくいい言葉だ。
私も本屋の端くれとして、この辺の言葉は使わせて頂くとしようと思う。(へへへ)
2『不器用な日々』では「「パリ20区、僕たちのクラス」を観る」から始まる。これは実話にもとづいたフランスの映画で、その実体験をした教師自ら監督もし、出演もしている。
清水はこの映画から自分の高校教師時代からの教師体験を振り返っている。生々しい、ある意味暴露に近い話をしている。つまりこれは、ものごときれい事ばかりではいかないってことでもあるのだろうが、半端でない清水の生き方を感じた。子どものためとか言ってつい美談や自慢話を持ち出しそうな所を、あくまでおのれの無力さといったものと向き合う姿勢に心を打たれる。
この映画、一人の子を救えなかったという話の後、生徒と先生がサッカーをし楽しんでいる場面に急に変わり、終わる。ちょっと前、先生と生徒は不信感の真っ直中にあったというのに。とまどう清水はこの章の最後を「ゼロにしたら、先生も生徒も人間を放棄したことになってしまう。まっさらな、無傷な尊厳でなくたっていい。そうさ。そんなものがどこにある? とにかくゼロにしないこと。ほうり出してしまわないこと。」と書き締めくくる。ここもいい。捨て台詞を言うのでもなく、校則だからとそれを権威を振りかざし押しつけるのでもない(学校関係者にこの手のヤツがたまにいる)。言い換えれば矛盾を抱えたまま生きざるを得ないのが生きるってこと。それでも日常は続くのだから。いや、続けて行くためにか。
1と2どちらにも夫婦の話は頻繁に出てくるが、2の「私たちは、必死にがまんしないできた」の章にはガツンときてしまった。夫婦がうまくいくためには、やっぱり我慢しちゃあだめだよね。これは別の言葉に直すと、対等な夫婦関係でいるには我慢しちゃだめってことだろう。世の中我慢しておかしくなっている夫婦はいっぱいいる。
1の「人、人、そしてやっぱり人」の章で「夫婦で動いていることの利点」や「語るべき物語を持たない人がどこにいようか」というのも、また別の章で「幸福な結婚生活が十年もあれば、人はそのあと何があったって、ちゃんと生きていける」っていうのも力強い助けになる言葉だ。「夫婦のダイナミズム」ってのもいい。ただ仲が良い夫婦なんて嘘っぱちだよね。
2のしめくくりの「子どもの本のもつ力」で、子どもの本が「向日性」と批判的に言われることについて、「人生を肯定することの方がエネルギーがいるんだ」と清水はいう。 さらにこの章では、「この人に出会えたから自暴自棄にならずにすんだと、そう思われるひとりにいつの日かなってほしい」と学生にお願いしている。私にとって清水はまさにそういう人だったのだが、今度は自分も次世代の人に、そうならなくてはということだ。それから、そんな本を私の場合、お客さんに手渡さなくてはと意を新たにしている。
この外にも赤ちゃんポストについて学生に尋ねてみたり、いつも時事に敏感で、それらをラディカル(根本的)に考えようとする文章が満載。グイグイ内容に引き込まれてしまう。私は子どもの本専門店をやりながら、年に1度、静岡の図書館で話す清水の講演を聴いて来た。それ以外にも講演録やエッセイもほとんど読んで来た。オウム真理教の事件の時はちょうど清水の講演を聴けずにいたが、清水ならこの事件をどう考えるか、清水の著書を引っ張り出して読み返し、何か自分なりに答えを見つけ出したという体験をしたことがある。この本でオウムの事件に絡めて宗教についてふれた箇所もあり、嬉しかった。
今、大震災があり、原発事故が起こり、私は同じ思いでいる。清水はこういう時なんて言うかなと。その後、自分なりにこうかな、ああかなって考え、違っているかも知れないが、結局それが考えるという習慣として私が獲得した能力なのではないかと思う。(こういう習慣を与えてくれたことにも感謝。)
例えば1の「動の怒り静の怒り」の章で哲学者三木清の「義人とは怒れることを知れる者」の話。国語教師大村はまの「人間、やりたいことをやるのも大事なことだけど、やりたくないことでも、やるべきならするようでないと、世の中困ってしまう」という引用。これを私は今心に刻んでいる。今私たちに出来ること、それは福島や東北の被災者のために、怒ることでは。(マスコミは怒りをオブラートに包んでいるからね。)
2の「社会をつくる力、変える力」の章で井上ひさしの『ボローニャ紀行』を取り上げながら、ボローニャ市民を称し、「何かというと「国際競争力」を盾に、小さいもの、弱いものを踏みつぶして平気などこぞの大企業連とは大違い。人びともまた「寄らば大樹の陰」とはならず、知恵を出し合い、努力を惜しまず、「共に生きる」というボローニャ精神で、しぶとくも優雅に生き抜いてきている」という文は、まさに今の「日本市民(国民ではない)」に必要な言葉ではないだろうか。基本、清水の考えは肯定感に満ちているが、既成概念や権威には時に皮肉や逆説のナイフを入れ、でもどこかお茶目で和ませてもくれ、そして真摯に生きようとするものにエールを送ってくれている。
この二冊が出た事に心から感謝。
大人 20x14cm 1は252p 2は238p