3.11あれから1年

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私は最近、平和ってなんだろうって考えます。
戦争の反意語は平和だと学校では習いました。
でも、平和なはずの日本で、危険な原発はどんどん作られ、反対を唱える者はホサれ、住民運動が起こらないように大金がばら撒かれてきました。

戦後に生まれ、戦争を知らずに育った我々は、なぜあんなつまらない戦争を起こしたのか、どうして反対しなかったのかと、我々の親の世代に対して思っていました。
今度は我々がどうして原発に反対しなかったか問われる立場です。
反対はしていたけど、どうにもならなかったと言えるのでしょうか?

危ないから止めろという請願書を出したわけでもない。六ヶ所村に行ってデモ行進したわけでもない。命をかけて反対したわけではない。
それどころか、原発推進派の作った「豊かな」社会の恩恵を被りながら生きていたともいえる。
だからおまえにも責任がある。
確かにそう言われると頭をたれて、しょんぼりしてしまう。

でも、でもです。
私はやっぱり反対していた。請願書を出していないけど、その人を偉いと思っていた。
デモに出る人を尊敬していた。
些細な事かもしれないが、胸はって私は言おう。

私は普段からエコな生活をしようとしているし、有機農法をしている人を応援しています。
百町森ではレジ袋を廃止しました。買い物をしてくれる人に、買い物袋を持ってきてくれるように呼びかけています。これだって結構勇気がいることです。そして、どこかで「原発反対」につながっていると思うのです。
小さなエコかも知れないが、積み重ねていけば・・・。

そして、ほんの少しでも、親しい人だけにでも、「原発止めたい」と意思表示をするなら、それは胸はっていいことなんじゃないでしょうか。自分のできる範囲で、生活の中から、平和の運動は始まっているのでは。

私が今、ちょっと不安なことは、社会が混乱している時に、ファシズムが台頭すると歴史が語っている通り、大阪や名古屋で大衆の人気取りをする政治家が現れ、9条のことや南京大虐殺のことについて発言していること。
平和の中にも戦争は始まっているんなと感じています。



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