はだしのゲンの閲覧制限について
はだしのゲンの閲覧制限が社会的な問題になりました。結局8月26日、松江市教委は制限を撤回しました。
しかし、8月21日に下村文科大臣が「学校図書館の図書の取り扱いについては、教育委員会に権限がある。松江市教委の制限要請は問題ない。」と会見で答えたことは御存知でしょうか。
●下村文科大臣の会見映像
「はだしのゲン」については8分50秒ごろから
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1338593.htm
皆さんは、この大臣の発言をどう思われますか。
教育委員が民主的にいろいろな立場の人が選ばれてなるならいざ知らず、それどころか最近、首長部局が教育員会を管轄した方がよいという意見さえあり、もし、そうなった場合、下村大臣の考え方からすると、学校図書館の資料は時々の首長の方針で左右されることになります。これはひどい話です。
子ども達の「知る権利」「読む自由」を奪うことは、戦前・戦中の検閲につながっていききかねません。
ただ、下村文科大臣の会見の中で言う「子どもたちの発達段階における教育的配慮が必要」という考えは、私も否定しません。(問題になっているような場面は幼い子に見せるのは虐待でしょう。)でも教育的配慮という名目で時の権力者が閲覧制限をすることは間違いです。
会見映像のなかでNHKの女性記者が勇気ある質問をしているのが嬉しく思う一方で、もう一歩「教育的配慮という名目で閲覧制限をするのは誰なのか?」と切り込んでほしかったと私は思いました。
出版労連、学校図書館問題研究会、日本図書館図書館協会からは松江市教委に以下の文書が出されてたそうです。
こうしたことは大変嬉しいことです。日頃から図書館の閲覧する自由がこうした人たちによって守られているのだと再認識した次第です。
●出版労連ー声明(なんと12年12月にすでに出していました!)
http://www.syuppan.net/modules/news/article.php?storyid=151
・抗議文
http://www.syuppan.net/uploads/smartsection/68_130820matue_gen.pdf
●学校図書館問題研究会 HP
http://gakutoken.net/new/
・松江市教委への申し入れ書
http://gakutoken.net/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=235&comment_flag=1&block_id=49#_49
●日本図書館協会図書館の自由委員会
http://www.jla.or.jp/committees/jiyu/tabid/182/Default.aspx
・松江市教委への要望
http://www.jla.or.jp/Portals/0/html/jiyu/hadashinogen.html
広島市の松井一実市長は21日の記者会見で(中國新聞)、
「はだしのゲン」の一部描写が過激として小中学校に閲覧制限を要請した松江市教委に対し、「教材として活用する広島市の取り組みを参考にしてほしい」と求めた。
松井市長は「(松江市教委は)子どもの精神発達の段階で完全に害悪を排除しようとすることに、あまりに重きを置きすぎている」と指摘。広島市教委が本年度から平和教育の教材に、はだしのゲンを用いていることに触れ「(この漫画を読めば戦争と原爆の惨禍が)二度と繰り返されてはならないと思える」と強調した。
広島市教委の独自テキスト「ひろしまへいわノート」は、小学3年ではだしのゲンを採用している。戦時中の暮らしや家族の絆、平和の大切さを伝えるのが狙いという。(加納亜弥)
この会見について思うこと
同じく教育委員会がしていることなんで、話がぐちゃぐちゃになりそうですが、閲覧の自由の問題とは別の話ですね。
そして、これには拍手したいです。
日本中がこの広島の痛みを共有すべきだとも思います。
ところで、作品論的な視点から私の考えていることも付記しておきます。
これは『はだしのゲン』に限らず、戦争の悲惨さを扱っている絵本や児童文学について全般に対して。
それはどこかセンチメンタルなんだと思います。
私にそれを言う資格があるのか・・・いろいろ考えてしまいますが。
私が作品に対して一番大事に思うことは、表現しようとする精神世界です。(精神の自立とか精神の自由といったもので、精神主義や精神論ではありません。)
だからなのか、幼い頃に美しいものにふれさせたいとか、芸術にふれて感性を磨いてほしいという気持ちが先に働きます。
『・・・ゲン』の中にも美しい場面があるので、その意味で全否定はしません。それどころか多くの人に反戦の気持ちを持たせたのだから評価しなくちゃいけないだろうと思います。子どもによって違うと思いますが、小学高学年位からは読みたい子は読める環境にあるべきです。
でも、これから起こるかも知れない戦争、あるいは戦争よりもっと恐ろしいこと(もう起こっているだろうけど)にたいして、悲惨さだけでどれだけの力になれるのかということが、私はやや疑問なのです。
悲惨さを強調する作品は、戦争を賛美する一部の大人と同じ土壌に立っているのではと思うこともあります。
原爆投下でないもっと恐ろしい形の「悪」がやって来た時にも、それに抵抗できるかということも重要です。
大きな「悪」がやって来た時、子どもたちに、柔軟に、冷静に、したたかに、泣きながらでも、怒ってでも・・・抵抗できる力を作って欲しいわけです。
どうしたらそんな力のある作品が作り出せるのか、その答えは直ぐには出せませんが、すくなくとも読者が幼い子であれば、大人へ信頼を寄せていかれる作品、大人であれば自分の中の悪を見つめていくというような作品…が本当の意味で平和のための本だと私は思っています。
それは、道徳というような次元を越えた、精神の気高さや自由のようなものを感じる作品ではないかと思います。
それに対し、例えばトールキンの『ホビットの冒険』などは、戦争児童文学でもなんでもないが、『はだしのゲン』以上に、「悪」に対抗できるものではないかと考えます。
舌っ足らずで、曖昧な表現が多くてすみませんが、私の現時点で考えていることはこんな事です。
私の私的なFacebook上では、絵本作家の長谷川集平さんが、漫画やアニメで表現することの限界について貴重なご意見もいただきましたが、それもひとつとして、作品論としては様々な方向性から、まだまだ語ることはたくさんあるように思います。