子どもの本って実は哲学なんだなぁって思いました。

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先日、「絵本を読んで哲学してみませんか?」という会を開きました。取り上げた本は『かないくん』(谷川俊太郎作、松本大洋絵)という絵本です。

ゲストに静岡大学農学部教授で文学博士(専門は哲学、倫理学、生命環境倫理学)の竹之内裕文先生をお招きし会の進行をしていただきました。

まず、竹之内先生からプロジェクターを使った自己紹介や、死についてル・グインの『ゲド戦記』、長田弘の『死者の贈り物』からの引用文を取り上げた後、柿田が『かないくん』を朗読しました。

その後、ある五つのテーマについてグループに分かれ、人の意見を最後まで聞く、その時発言者はコミュニティーボール(写真で竹之内先生が手にもっているもの)を持つといったルールIMG-5175.JPGの説明を受けた後、30分ほどじっくりグループディスカッションをしました。

(ちなみに五つのテーマは1,「死」を「重々しく」も「軽々しく」も考えないとは 2,「死んだら終わりまで書ける」とは 3,死とともになにが「始まった」のか 4,絵の中に頻繁に出てくるウサギは何を意味しているのか 5,お葬式で笑ってしまうこと です。)

それから全体で45分ほど、対話の中で出てきた印象深かったことなどをグループごとに発表し、それについても話したい人はその場で発言しました。

IMG-5168.JPG

IMG-5169.JPG最後の写真は参加者の発言を竹之内先生が板書したものです。

この会の事を参加者の静岡大学大学院の川口真由さんがまとめてくださったので載せさせていただきます。

グループディスカッション

1、「死」を「重々しく」も「軽々しく」も考えない。それはどういう態度をいうのでしょうか?
・「重々しい」と「重い」は違う。「重く受け止める」ことはあるが、「重々しく受け止める」ことは、重さに見合った態度になっていなくて、過剰・ネガティブ・シリアスな意味を
 含む。
・「軽々しく」は分かりやすい。死者のことを忘れることは「軽々しい」ということとは少し違う。忘れることは悪いことではなく、自然なことでもある。
・第三として「自然にある/身近にある」こと。「死」を特別なものとして扱いすぎず、「死」という地盤にある「今を生きる」ということ。
・個は(人)類をつくる。
・「死」を経験した人は「語り手」となり、経験してない人は「聴き手」となる 傾向。絵本というフィールドでは、誰もが自由に話すことができる。

2、「死んだら終わりまで書ける」とはどういうことでしょうか?
・「書ける」というのは、この世界で身をおいて「書く」こととは違う。
・書けるというのは、「死」をもって「伝える」こと。死を予期した直接的関わりをもった死別と、その場におらず突然「死」を知らされる死別とでは、「伝わる」意味が異なる。
・物語は「終わらないと、生まれない」、死してはじめて物語になる。
・作家は、確証ないことは書かない。かないくんと同じ世界にいけば書ける。
・おじいちゃんは、鉄棒の場面で完結させていて、後は読み手に委ねている。
・おじいちゃんが「書けない」と言う場面から「死んだら終わりまで書ける」と言い切るまでの間に、ホスピスへ移行している。これは、「生」に身をおいていることから「死」のに身をおいている、という意識の変化がある。
3、おじいちゃんの死とともに、なにが「始まった」のでしょうか?
<グループでの感想>
・ほとんど記憶にない父の「死」を知ってから、自分の中に空いた穴に気づき、「(父が)いたんだ」とわかる。父のことを思い出すことが増えるなかで、父と「出合った」感じがする。
・死別により生きることを勇気づけられた。
・限りある生であることを心に刻んで生き続けること。
・亡くなった人に対して、感謝の気持ちしかない。毎日ありがとうと言う。
・「死」に対する感覚や考え方は、経験や年齢によって異なるが、死別経験によって「死」が怖いものではなくなった。
・「死」を受け入れること。
・(亡くなった)その人がいるからこそ、今の自分がいる。私は、その人が生きていたということの証である。私がどう生きるのかということと、その人がどう生きたのかということは相互に影響し合っているような感じ。私は、その人の分まで自分の人生を生きるし、生きなきゃいけないと感じる。
<全体での感想>
・「死」という喪失に対して、前向きな受け止めである。
・「死」を経験しなくとも、人間は「死」というものがあることを知っている。身近の人の「死」を経験していない人にとって、「死」は前向きに捉えられるものなのだろうかという疑問があるが、実際に経験したらそうなるのかもしれないという感覚。身近な人の「死」を経験していないから「軽々しく」考えていると言われればNoである。
・身近な人の「死」を経験していなくても、現象的喪失により「死」を経験している人もいる。
・絵本の続きが「始まった」
・「死」を考えないといけない人生の始まり/「死のある人生」が「始まった」・孫娘にとって、「おじいちゃんのいない日常」が「始まった」
・おじいちゃんを想いながら、おじいちゃんの何かを背負いながら、孫娘が生きていくことの「始まり」・小4のかないくんとおじいちゃんの2つの「死」は、人生の長さからして異なるもの。
・天国でなんか良い世界が始まっていてほしいという願い。
・ダラダラとまとまりなく続いている人生(横棒)において、「死」は錨が降ろされたように、区切りとなる。
・身近な人の「死」を経験した人は、その人から、想いを負わされている感覚。自分だけのための人生でなく、つくりかえられ、生きなおさせられる感じがある。(=言付けを受け取る)

4、絵本に出てくるうさぎが表していることは何でしょうか?
・かないくんは、小学校で育てられているうさぎの飼育係で、亡くなった後も 学校に行きたかったのかもしれない。
・かないくんの机の上にラクガキされたウサギが、かないくんの想いによって他の場所にも表れている。
・おじいちゃんにとって、かないくんとラクガキのウサギがセットで、象徴としてある。
・空想のうさぎが、おじいちゃんにとっては
・後半、絵本の色が鮮やかになり、漢字が使われているという変化がある。
・白色がKey。裏表紙の色が前後で異なる。(前:カバーをめくるとかないくんがいて、後:白色)
・最後に、子どものおじいちゃんがかないくんが好きだったうさぎを届けてあげている。
5、葬式で子どもたちが笑ったことは何を表しているのでしょうか?
・笑いは、表現の一つであり、人それぞれその表現から意図することは異なる。笑っている人が「死」を「軽々しく」扱っているのだろうか?泣いている人が「死」を「重く」扱っているのか?端から見てるだけでは、わからない。
・「死」に「重い」も「軽い」もない。それは、残された人の受け取り方の違いである。
・子どもは、「死」というものを理解しており、その哀しみを払拭するために笑っている。そして、その笑いは、他の子どもに伝わっていく。

そして、以下、参加者からの感想です。これらは会が終わってから、参加者にメールなどで寄せていただいたものです。みなさんそれぞれにすごく深い感想で驚きました。そして、子どもの本って実は哲学なんだなぁって、私は思いました。

その1

先日の哲学カフェありがとうございました。
日常、数字相手がメインの仕事を行う中、なかなか死生観等について深く考えることがなかったので、とても興味深かったです。

また、参加者の方の中には、様々な経験の方がいらっしゃって、多種多様な「死生観」をうかがうことができ、視野が広がった気がします。

なかでも、「人の死」について、同じグループの方が「人の死を徐々に忘れていくというのは自然なのではないか」という意見があり、自分自身似たような経験があり、少し後ろめたい気持ちになっていたのですが、とても救われた気がしました。

また、こういった機会にはぜひお話を伺ってみたいと思います。
その2
「死んだら終わりまで書ける」が気になるグループに参加しました。
気になる場面ごとにグループを作って話し始めたが、だんだん他の場面や言葉についても話が広がり、またベトナムからの留学生がいたおかげで異文化に気づいたり、とても面白い話し合いになっていったと思う。テーマの死については、それこそ「死んだら終わりまで書ける」ことなのでもちろん結論のようなことがまとまったわけではないが、初めて会った人同士で、子どもの頃に死をどうとらえていたか、など深いことを語りあえたことがよかった。
まんなかに絵本を置いて話し合うのは、受けとめ方や気づきの違いを知ることができて、ひとりで読むだけより核心に近づけると思う。 後からも、まだ考えたりしている。
最後に他のグループとのシェアの時に、「身近で死を経験していない私は・・・」とおっしゃった若い方に、
「実際に経験していないことも、絵本や文学のなかで疑似体験しているから大丈夫」と言ってあげたかったと思ったり。

個人的には、また別の本、別のテーマでもできたらいいなと思う。もっと時間がほしかった。
最初に先生からキーワードを出してもらってグループ分けしたけれど、(追加のキーワードも出せたのはよかったけれど)結局、話は絵本全体に広がるので、「最初の切り口」はなくてもよかったかな、と思った。 グループになってから、どこが気になるとか話し始めても大丈夫だったかと思う。  
あるいは、参加者があらかじめ本を読んであったら自分の話したいところをそれぞれ出し合ってキーワードを作るところから参加者がやってもよかったかもしれない。
(ラボという私が関わっている英語の教室で日常的に物語について感じたことやはてなと思ったことを話し合っている私にとって、さほど新鮮に思わなかった死生学カフェですが、他の方たちはどうだったでしょう? でも帰りに、また会って話したいね、といって別れたので、皆さん気持ちよく話されたと思います。)

以下、グループでの話し合いのメモ

友達がなくなって「死んだらひとりぼっちなのか?」と思った昔のことを思い出したおじいちゃんは、今まで生きている間にはわからなかった「ひとりぼっち」かどうかが死んだら分かると言っている。ひとりぼっちじゃないかもしれない。
現にこうやって思い出してもらって、存在感がある。
誰か(おじいさん)の心のなかに存在している。
死んでから金井君に会えたらどんな続きを書くのかなあ?
谷川俊太郎が好きだが、いつも言いたいことを全部は言うわけじゃなく、行間に書く。
おじいさんは形に表して書くのではなくて、つまり最後まで書くつもりはなくて、読み手に委ねて完結してると思う。
おじいちゃんは道しるべとして絵本をここまで書いて完結してる。
委ねられた孫娘が「始まった」と思ったのはそういうこと、委ねられて続きを考え始めている?

「金井くんはおじいちゃんの先輩」と受け止めた孫娘がすばらしい。
「まだわかならいことがあるって素敵」という言葉もいい。

ウサギも気になっていた。
金井君を思い出すところでウサギが出てくる。
ウサギって日本ではどんなイメージ?とベトナムのF君。
弱いとか優しいとか・・・・金井君は動物係だったのかな?
日本の学校ではよく飼われているから、金井君が学校に来たかったという気もちを感じる。
F君が、「死んだらまた会える」というのは東洋的な思想だと思う。
西洋では死は終わりなのではないか。日本人は仏壇とか死んでも縁がきれない。
それは宗教によっていろいろだよね。
宗教は、死の痛みをどう和らげるかというためのもの。
死は全ての人に平等、それをどうとらえるか。
子どもの頃、眠れないほど死が怖かったので母に尋ねたら、「死んだことがないからわからない」と返事されたことを思い出した。 
生きるのも死ぬのも恐れてはいないが、つながりがあって生きていると思うから、一番怖いのは「孤独」だと思う。
金井君はおじいちゃんに思い出してもらえたから孤独じゃなくてよかった。ひとりぼっちじゃない。
読み聞かせの活動をしている人たちなので、中学生には読んでほしい、という話になった。

その3
保育の勉強をしながら、福祉関係の仕事をしている20歳の方から。
百町森に来たことは、初めてで、絵本のお話しでもある「かないくん」について、たくさんの方々とお話しの内容について共有することが出来て嬉しかったです。かないくんの気持ちや周りの人の気持ちを考えるととても、共感することが多くありました。今後も絵本についてもっと知り、沢山の方々と共有したいと思います。
同じ職場のスタッフも参加していて、とても良かったと言ってました。他の人にも伝えられたらいいなと思い、絵本を注文させてもらいました。
このような、絵本のお話しのイベントを開催してくださってありがとうございます。
その4
参加する前は議題が哲学と聞いて難しそうだなと尻込みしましたが、百町森さんで開催するなら趣向が変わっているかもしれないと思い切って参加しました。
哲学カフェは初めての体験でした。
私の参加したグループは20代の学生さんたち、30代、40代、50代の主婦と幅広い年代のグループでしたので、、テーマである死についての捉え方が様々で、とても貴重な意見を聞くことができました。
私自身も初めは漠然とした捉え方しか浮かびませんでしたが、皆さんの意見を聞いているうちに、自分のこれまでの人生で体験した人の死について具体的な思いが浮かんできました。
更に他のグループの発表を聞くと無限に意見が広がって、一つの絵本から私が全く想像できなかった世界を見ることができた時間になりました。
その5
柿田さんの絵本の朗読がとてもあたたかくて、絵本を読んでもらうのは大人になってもいい体験だなぁと、しみじみしてしまいました。
私のグループには中二の男の子とお父様がいらして、「じいじが亡くなっても日常が何も変わらなかった」と、じぃじの死を彼なりに消化しようとして、あの講座に参加されたとのことでした。
そして、夜の講座に中二の息子が行くというので、私もついてきました、とお父様。様々な絵本への考察が鋭く、ご家族で迎えられた「じぃじ」の死から息子さんと共にたくさん考えてこられたのだなぁ・・と感じました。
60代の女性は、ご自身が思春期の頃、死が恐ろしくて恐ろしくて仕方なくて、でも誰にも話せなくて・・考えないようにしていたけれど、この年になってみて、死の恐ろしさよりも、今、この瞬間に生きている、ということがただただありがたい、感謝の気持ちと生きていることが嬉しい、そういう情熱に変わったと、頬を紅潮させてご自分の言葉で語ってらっしゃったのが印象的でした。
また、もうおひとりは特別支援学校の職員の若い女性の方。6人もの生徒さんがこれまで亡くなり、今年は3人も・・・。どのお子さんもみな本当に一生懸命生き抜いて、ご家族の皆さまも一生懸命で学ぶことばかり・・死の恐ろしさはいまはなくなったけれども、痛みがあったりしたら嫌だなぁ・・・そういう気持ちでいる、と。
その方が、あのホワイトボードの図、時間軸の中に死があって、それを区切りとして亡くなった方をずっと心に思い生きていく日々が始まるのではないか、とお話されてました。
初めてお会いした方々なのに親しい友人と交わすような深い対話を交わすことができ、皆、話し足りないようでした。特に中二の男の子にとっては大切な場だったと思います。やはり学校の友達とはこのような話はしませんから・・。
それでも死は平等に様々な家庭へ訪れ、大切な人との別れがそこにあるので、誰でもその体験や死について思うことを思う存分話せる場はこれからますます必要とされるのではないでしょうか。定期的に続けていっていただきたい会です。
絵本そのものを読み込んでいらした柿田さんのグループのおはなしも興味深く、もう一度色々考えながら絵本を読んでみたいと思わされました。

 私自身の体験ですが、数年前の祖母のお見舞いで、荒い呼吸・濁った眼の祖母のライアを身体にのせ、祖母と昔一緒に歌った童謡をライアを奏でながら姉と歌い、クーゲルを耳元で慣らし、手をさすっているうちに呼吸が静かになり、その瞳ははるか遠くを臨み見るような澄んだ美しい瞳になって、(姉が岩波少年文庫の「星のひとみ」のような眼だったと言っていました。)静かに死を受け入れ、あちらにいく準備をしたような姿が忘れられず、死そのものを生ききる、まるで生まれてきた時のように皆に祝福されながらこの世を去るには何が必要なのかずっと考えてきたのですが、それが「死生学」であり、「哲学」だったのだなぁ、と講座を受けていてわかりすごくすっきりした気持ちになりました。
あの講座に背中を押されたように思い、自宅へ帰りましてから、参加を決めかねていた「看取り士」の講演会に申し込みました。(看取り士とは、AERAで紹介された民間の資格です。)http://mitorishi.jp/ もしかしたら、「絵本を哲学する講座」がきっかけで人生が大きく変化するかもしれません〜!講座を企画してくださり、本当に感謝です。ありがとうございました!
その6
 この会に参加し、日々生活している中では、なかなか考えないことですが、「『死』って?」と考えるきっかけをいただけたと思っています。
この会で、かないくんの死について読み込み、いろいろな人の『死』に対する話を聞くことで、自分自身の中で『死』をどう考えるのか、何を思うのかと問い直すきっかけをいただきました。
改めて「死ぬこと」を考えた時に、自分の中では、『死』とは生きることであり、『生きる』ということを考える始まりなんだ、と思いました。
結局、答えはないんですよね。『死』を考えることは、今の自分の「生き方」や「生き様」を考えることにつながっていくのだと思います。
これから、自分はどんな風に生きるのか、何を感じ取りながら生きたいのか、自分が最後を穏やかに迎えるためには何ができるのかなど、今の『生』を前向きにとらえる気持ちになることができたなぁと思います。
その7
 「かないくん」の絵本はこれまで気になってはいたのですが、実際にページをめくるのは対話の会がはじめてでした。死について、日常で考えることも少なく、また、初めて合った方との会話で死を話題に出することも中々ないのでとても新鮮でした。
 この会でとても印象に残っていることがあります。「死について語る時に、どうしても死を多く経験した者が語り手になり、経験の少ない者は聴き手に回ってしまう。しかし、絵本というフィールドでは、誰もが自由に話すことができる」というようなことを竹之内先生が仰っていました。確かに、死について語る機会を得ても、私を含めまだ死を多く経験したことのない人は聴き手に回ってしまいがちです。今回の会のように、若い人も語り手になり、また、上の世代の人が耳を傾けてくれることは非常に嬉しいことでした。絵本を通して死について語る時、そこに経験の差はなく、対話が生まれるのだと感じました。
 さらに得た気づきとして、自分の中で考えることと、人に話すということは大きく違うというものです。私は大学院で心理学を専攻し、死生学について関心をもって学び始めたばかりなのですが、ぼんやりと自分が死に対してどのような考えをもっているのか見えているつもりでした。しかし、それを人に話すために言葉にすると、どうしても伝えきれていないような感情が残り、整理しきれていない部分があることに気づきました。また、そもそも何故「死ぬこと」について関心をもち始めたのかということを深く考えた事がありませんでした。このような気づきは、自分の頭のなかで考えているだけでは浮かばず、グループメンバーとの対話のなかで生まれたものでした。
 自分が「死ぬこと」について関心をもち始めたきっかけを、自分の内側を手探りしつつメンバーにお話させていただきましたが、その時の私は語り手でありながら聴き手でもあったように感じます。私の口から出てきたことですが、(へーそうだったんだ)という気持ちでその語りを聴いていたような感覚です。自分が今まで考えてこなかったことが話題に出たとしても、とりあえず話してみることで何かあたらしいものが生まれることもあるのだと思いました。
 この会で私は参会者の方と対話をしながら、「死についてどのように考えているのか」改めて自分の経験を振り返る機会になったと同時に、対話をすることの可能性について学ぶことが多くありました。この度は、素敵な会を誠にありがとうございました。今後も、このような機会がございましたら是非参加させていただきたいと思っております。

その8
絵本を哲学するって、一体どんな講座かしら?と沖縄からワクワク参加させて頂きましたが、講座はなんとなくこうかな?ああかな?と、想像していたものとは全く違うものでした。絵本を使って、こんなことができるんだ!と新鮮な驚きがありました。

私が参加したグループは「生と死について」話し合うグループで、そこでは沖縄での死についての捉え方をおはなしさせて頂きました。
沖縄は古い土地ですので、「祖先崇拝」とも言われますが、死んだ人との繋がりがとても近いのです。春分の日や冬至にも、「ジューシー」(豚バラ肉と、ひじきやにんじんなどの野菜を具に、豚肉の茹で汁や昆布の だし汁で炊き込んだ沖縄風の炊き込みご飯)を作って、まずはお仏壇にお供えしてから食べますし、お盆やお墓参りもにぎやかです。

お盆でご先祖様をお迎えするときには、まるで生きている人が帰ってきたように、ろうそくをつけ、玄関を開けてお迎えして、三日間ご馳走を作ってお供えしておもてなしします。そして、最終日もご飯を食べていただいてから、神銭というあの世のお金を玄関のボールに入れ、お土産のお金をもたせてまた来年も来てくださいね、と送り出すのです。(神銭はお盆の時期になると、お線香と一緒にスーパーに売られているものです。)

沖縄では代々の土地にそのまま住んでいる人が多いんですね。私たちが何の不自由なくやっているのは、ご先祖様がちゃんとやってきてくれたからだ、ありがたいなぁ、という気持ちが自然に芽生えていきます。ですから、死んだ人が怖くはないのです。亡くなると悲しくて泣きはしますが、きっとあの世でまたみんな宴会だよね、おじさんに会っているかな?誰々さんに会っているだろうね。これからはここにはいないけど、いつも身近にいる・・ そしてお仏壇で繋がっている、みていてくれている、そんな風に思っています。
海のかなたにはニライカナイがあるといわれ、私たちの魂はニライカナイから来て、死ぬとニライカナイに帰っていきます。誰もがいずれ必ず死に、ニライカナイへ帰るのだから、死は忌み嫌うものというより、日常生活や季節の行事の中に溶け込んでいて、本土よりもとても身近なものなのかもしれません。

もちろん霊感が強く視える人も中にはいますが、視えない人にとっても、身近で、死んでも繋がっている感覚が強いです。そして多くの人が死んだら何も持ってはいけない、軽くなって上に上がっていきたい、と思っています。軽くなる、それは、この世に生まれた使命を果たすということです。人には持って生まれた使命があり、この世に生まれてきた使命を果たさないと上にはあがれない、そういう感覚を持っている方が多いですね、(流行りのスピリチュアルではなくて・・。)
そのようなことをおはなしさせていただき、また多くの方のお話を伺えたのも収穫でした。

帰りましてから、大学生の娘にこの講座の話をしたところ、「私もその絵本、読んでみたい!」と、思っていた以上に反応があり、長い時間いろいろ語り合うことができ、若い世代もいろいろ真剣に考えているんだな〜と改めて娘を再発見もできました。若いからこそ、死について、生きることについて、もっと語り合いたいのかもしれませんね。
講座のおかげで、家族ともそのような時間を持てましたこと、感謝しております。

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