子どもの本を読んで哲学する 今回も素晴らしい感想が集まりました。
『マコの宝物』 えきたゆきこ著 現代企画室
今回はこの本を取り上げました。
ゲストに『マコの宝物』の解説を書いている児童文学者の清水眞砂子さんに来て頂き、会を進めていきました。
その1
子どもが自立しているなぁ、のびのびしていていいなぁと思いました。
同時に、途上国の子どもたちのように、マコたち子どもは働き手なのだと思いました。
大人から頼りにされ、認められ、自分たちで考えて行動し、子どもたちは自信をつけていくのだと思います。
いまの子どもたちより大人びた目をしているに違いない、そんな気がしました。
えきたさんがこども時代を思い出して書いたものなら、確かに宝物の思い出に違いないでしょう。
いっきょうさんのあいさつなど、感動して涙が出そうでしたが
一方で、どのお話もきれいすぎる気がしました。
なんて幸せな子ども時代〜。私にとってはおとぎ話でした。
清水真砂子さんのお話を身近にきき、
1冊の本をもとに、様々な年齢、立ち場の違う人が話し合うのは、面白い経験でした。
「マコと宝物」は人によって受け止め方が大きく変わる本なんだと、後でわかるのですが、
ひとつの意見や感想にみんなが引っ張られてしまう危うさを感じていたときに、
清水さんの投げかけたひと言で、場の空気がみごとに反転する様は、実に面白かったです。
何よりえきたさんのお話の解説をひきうけた清水さんの、並々ならぬ覚悟を直にお聞きできたことは、
最高の収穫だったと思っています。
中学校 学校司書
その2
マコの宝物を読んだあと・・一気に読みすすんでしまったなあ・・・。
何が一気読みへとひきつけたのだろうか?
少し前に石井桃子さんの幼ものがたりを読んでいたので、幼いときの思い出を綴った石井桃子さんの幼ものがたりとはちがうなあと・・・。
石井さんが私という形で文章を進めていらっしゃるので石井さんの子ども時代として思い浮かべることが容易だったのかも知れません。
「幼ものがたり」のなかには幼い頃の石井さんがいましたが、「マコの宝物」の中には本の中のどこかわからない場所、時代の中にマコとともに私がいました。
まず、マコの生まれ育ったこの土地はどこなのだろう?いつのことなのだろうか?これを書いた作者はどんな人なのだろう?
マコはイコール作者?
幼い頃の思い出がこの本を書かせたのだろうか?このような本を書いた背景はなんだろう?
私には幼い頃のどんな思い出があるのだろうか?
作者をしらべていくうちに(ネットで)その過去に驚き、どんな思いでこの本をかいたのだろうか?とさらに思いがつのりました。
児童文学と言う範疇にネット上ではあるが、子どもたちへどうやって手渡すのか?
文庫にくるこどもの誰に手渡せるのだろうか?
今の中学生や高校生が読むとどんな感想をもつのだろうか?
このような読書会に若い世代が入っていることはすごく大切なことだと思います。
大人だけだと得てして一方向しか見られないことだと・・・。
文庫でも図書館でも意見を発信することのできる中高生との接点がないのです。
清水真砂子さんが帯に書いていらっしゃったことばにこんな喜びとかいてありましたがどんな喜びなのだろうか?と・・・。
清水真砂子さんが絶賛していることによるのかも知れませんが皆さん素晴らしいの連発なんだなあとかんじて皆さんのお話を聞いていました。
私の疑問だらけのことを結局発言する機会を逸してしまいました。なかなか発言する勇気がなかった・・・。
そこに清水さんのお言葉・・・美化しているというところではっとしました。
清水さんがえきたさんの本の解説されるときの不退転の決意には作者の背景について全く思いを寄せていなかった私にとっては文章を書くということ、解説をすることの意義の大きさに改めておもいを寄せました。
この会で清水さんが話されていた「世界 3月号」、翌日に近所の書店に行くと平積みになっており今まで手に取ったことのない「世界」を初めて手にしました。
岩波がこんな本をだしているのだなあと・・・。
お話終了後に立ち話をさせていただいた時に、清水真砂子さんが新聞の写真一つにもいろいろな思いをはせていらっしゃることや、それについて実際に新聞社にお手紙をされていること・・・などの発信をなさっていることを知りました。
得てして世の中のいろいろやメディアに対してはもう、うごかないこととあきらめておりましたが、文章で何らかの発信ができることにすごいことだと思いました。
それにはその背景などをきちんと理解し、自分の考えを確立しないといけないなあと、関心をもちそれに対してレスポンスすることの大切さを感じました。
いつも清水真砂子さんのお話を聞くとその知性の深さ・・・いつか清水さんときちんと向き合ってお話ができるようになりたいなあと思います。ほど遠いのですが・・・。
私がカニグスバーグや乙骨淑子の作品を知ったのも清水さんのお話を聞いたからです。
このように1冊の本についていろいろな思いを聞く機会ができたこと感謝しております。
家庭文庫主宰
その3
久々の百町森、しかも夕方からの会合は私にとって超非日常で、静岡に向かう電車の中から気分が盛り上がっていました。会場も会議机にパイプ椅子なんて見慣れたものではなく、お店の奥のひみつの小部屋(に感じました)でみんなが膝突き合わせて語り合う、しかも、講師は清水眞砂子さん!刺激的でくらくらしてしまいました。
「マコの宝物」は課題図書にならなければ、おそらく手に取ることのない本でした。書名を聞いたときは、マコって清水眞砂子さんのマコ?と思ってしまいました。
すんと物語の中に入り、本を開いている時間は土のにおい、草いきれ、雪の上に大の字に倒れた時の背中の感覚を思う存分感じました。終盤、川に沈んでいるおじいさんの場面が衝撃で、なぜ第一発見者の大人がマコが来る前に引き揚げなかったのかに引っ掛かり、そればかり考えてしまいました。
もう一度読みたいとはあまり感じませんでしたが、皆さんの意見を聞いて読み返してみようと思ったり、自分の幼いころを振り返る機会にもなりました。私はマコたちのように周りの人のことを考えて行動した記憶があまり無いし、どうして大人ってこうなの!?などという感情は六年生くらいまで湧いて来なかったかも。ぼんやり過ごしていたなー。ただひたすらゴム飛び、缶蹴り、ドッヂボールに明け暮れる毎日でした。
今回のような「読書会」の経験が少なく、若いころは特に「読書は個人的な作業。人の感想は知ったこっちゃない」と思っていました。
ずいぶん大人になって、誘われるままにこどもの本とのおつきあいが始まり、考えもしなかった学校図書館でのお勤めの末、やっと共に本を読み意見を交わす楽しさを知りました。
また機会があったら、本にまつわるいろいろな会に参加したいと思います。
白崎茶会のおやつもとってもおいしかったです。楽しい時間でした。
学校図書館ボランティア
その4
読書会に備えて、感じたことや話したいこと、聞いてみたいことをメモしていきました。
「この時代はいいなあ、こういう大人の関わりが少なくなった。」という思いがあったので、最初のうちの参加者のみなさんの感想にそうそうとうなずいていました。
どこがいい、ここが好きというのがしばらく出たあと、清水眞砂子さんが「いいところばかり出るけど、本当にそれでいいの?ネガティブなことはない?」というようなことを仰ってはっとしました。
すると、いわゆる優等生的な『読書感想文』のようだった流れがかわって、面白くなっていきました。
「昔はよかったって言われても、私は今だっていい」という中学生や「子どもに勧める本のリストには入れなかった」という司書さんの意見、若い男性の素直な言葉が聞けたのもよかったし、触れにくく思っていた著者についてのこともうかがえました。
著者は、現在この作品の舞台となった懐かしい場所には帰れない状況ということを聞きました。それでも、子ども時代が「宝物」として著者を支えているだとしたら、読者それぞれも自らの子ども時代は「宝物」なのだと思いました。
だから、児童文学とうたっているけれど、これは今まさに子ども時代を生きている子どもに向けてというよりも、大人がそれぞれを振り返り、思いをめぐらせるきっかけになる作品なのかもしれません。
実際、里山の匂いの中で、子どもながらにあれこれ感じたり、思いやる行動をするマコに触れて、自分自身の子ども時代のことがびっくりするくらいあれこれと思い出されます。
30人近い方たちとの2時間はあっという間で、もっと話しあいたかったです。
手作りのおやつもとても美味しかった。
英語教室主宰
その5
気軽なスタイルの会で参加しやすかった。清水眞砂子さんがゲストということで参加しました。
普段だったら手にしない児童文学であったけど、会に参加するために購入しました。
雑々な意見が聞かれて良かったです。自分だけではとおり一辺んな読み方ししかできないが、より深く読むことができました。
本は高価なのでなかなか購入するまでにいかないが、このような会を企画して頂くと「元がとれた」感じです。特に中学生の意見が印象ふかかったです。
その6
ひとつの作品についての感想や思いを述べ合う場というのが、まず新鮮でした。清水さんが発してくださるコメントが、見方を広げたり意見を誘ったりして自由に語れる場でした。
柿田さんが配ってくださった新聞の抜粋にあった、意見のちがいを認め合う「対話」の場だったと思います。
皆さんの発言について、共感できる喜びだけでなく、まるで違うことから受けられる刺激が思いのほか心地よかったです。
一番印象に残ったのは世代間の感じ方の違いについてです。清水さんや、私より少し年長の方々は作品世界の時代にあって、今は失われつつあるもの…清水さんは「厚み」とおっしゃっておられました…を作品から感じ取って、そこに価値を見出しておられるように感じました。それに対して中学生の娘は「昔ってそんなによくて、今はそんなにだめ?」と問いかけてきました。娘は今しか知らずその中で前を向いて生きているので、自分が立っている場所を否定的に括られているように感じたのだと思います。
私はというと、作品世界とはやや隔たりがある世代で、子ども時代がとてもよかったとも思えないけれど現代をすべて肯定はできないです。
ただ、今よりよかった過去を知っているなら、それを今に活かす方策まで提示できないと、若い人には否定されているとしか受け取れないのかな、と今回考えさせられました。
家庭や仕事の日常生活だけではなかなかこんなふうに思いを巡らせることがありません。気持ちよく頭と心を動かしたひとときでした。
中学校図書館司書
その7
私は初めに作者の略歴を読みました。20年収監されていたということは、ひとりの子が生まれて、20歳になる年月なのだなあと思い、その間、社会から隔絶され、携帯電話もSNSもなく、犯した罪に向き合う、その一方で「マコの宝物」の中に作者が生きる世界を見つけたのだと思います。「あ〜、これで当分生きられる、生きてゆける」私にはそんな作者の声が聴こえてくる様な気がします。
その8
今回の「マコの宝物」は、もともとあまり楽しんで読むことはできませんでした。古き良き日本の原風景を美化して描いたに過ぎないとの思いを拭えずにいたからです。
しかし、参加した方の感想や清水さんのお話を聞く中で、気づいたことがありました。それは、作者にとってこの作品は、自らの犯した過ちと向き合う上で、書かずにはおれなかった「自己を確認する作業」
だったのではないかということです。
作品は、作者の育った町で起こった出来事や出会った人とのふれあいを描いた自伝的要素が強く、マコが作者そのものであることについて、話題に上りました。その中で、清水さんが「子ども時代をたどることが生きる力になる」と仰っており、作者が子ども時代を描くことで自らの犯した罪との向き合い方をしたのではないかとの見方を得ることができました。作者にとって意識的か無意識的かは判じませんが、これは罪と向き合う上で欠かせない作業なのではないかと思いました。
被害を受けた者の苦しみや悲しみを真に理解しようと努めるには、まず被害を与えた者自身が、自分自身について理解することが必要だと考えます。自分自身を受け止められることなしに反省を口にした所で、それは表面上の言葉にしかならないからです。罪との向き合い方として、自分の生きた道を振り返り、自己を確認し、過ちを犯しながらも生きていくことへの決意を新たにする。そこから真の反省も謝罪も始まるのではないでしょうか。その作業こそが、作者にとってこの物語を紡ぐことだったのではないかと会に参加して思うようになりました。
その視点でこの作品を見つめた時、そこにあるのはただのノスタルジーではなく、作者が償いの道を歩む上での必要不可欠な過程と言えるのではないか。そこにこそ、この物語の価値があるのではないかと感じました。
一冊の本を奇貨として作者の背景や読者の世代による受け取り方の違い、現代を取り巻く社会の在り方等、様々な視点から話し合えたことは非常に楽しく、充実した時間をすごすことができました。また、それぞれの参加者の視点から出された意見も作品に対して自分が抱いていた狭い視野を広げてくれるものになりました。子どもの本に携わる方々の、子どもの本に対する思いが聞けたのも非常にうれしい経験でした。
このような企画は今後もあれば参加させていただけたらと思います。ありがとうございました。(矯正施設職員)
その9
今回、『マコの宝物』〜”子どもの本を読んで哲学”に参加出来たのは、知人から
催しを伺った御縁によります。対話の会には関心があり、哲学カフェなどテーマに合わせて出掛けています。百町森さんにあるご本やおもちゃに囲まれた一画のお部屋は、私にとって初めての会場となる奥座敷(笑)でしたが、和やかな空間で気持ち良く座れました。店主の柿田さんが、本の前・後半毎、登場するキーワードを書き出したレジュメと、関連資料のプリントを渡して、手ほどきしてくださったので助けになりました。
主人公が過ごした子供時代と自分たちの体験を振り返って重ね、大人との乖離など気付いた声が出始めるのが楽しかったです。
自分が特に強く印象に残ったのは、皆さんとのディスカッションが盛り上がる中で、話題に上がった「自然」を巡る解釈の一幕でした。私自身は、ゲストの清水さんのガイダンスやご指摘の一声で、話に酔うように眠っていた頭が次第にハッと目覚めていった感じです。
参加者の中学生が、昔への礼賛意見が続いた流れから現代を肯定する実感を述べてくれて良かったです。
清水さんいわく、「石畳の街並みで育ったロンドンっ子だって、ちゃんとしっかりした大人に育ってますよ」。海外の児童文学作家とのエピソードを合わせてご紹介した内で、自然って何?と云った時、「生まれた時にその人の身の回りにあったもの」と仰ったこと、なるほどなぁ〜、と思いました。
私の故郷は北東北の山間で、越した先の県外で育ち、静岡移住歴はやっと成年を迎えます。地方も文化も違う生活に、どうも肌の合わぬ違和感は拭いきれません。それで触発されましたが、私は”自然”や環境の問題について、当たり前に存在するようであって目に見えないものの大切さを、感じ取れるセンスのちがいがあるに過ぎないのかなと認識しました。
アスファルトの下にある地面から、舗装された道路をひび割らせて伸びて来る植物の姿に生命力があり、地球上を渡る空気の質が変われども、自分達は呼吸して栄養を摂取しながら存在出来ている。
関連して、先日知人から不意に面白いことを聞いたことを思い出しました。
「俺は、どっちかってぇーと”平和”とかどうでもえぇ。戦後になり、高度成長期には工場の排煙や汚れた水がどんどん流れてるのも、当時は復興や豊かさのシンボルと思って、それを見てみんな元気になれたものだよ。後の時代になってから、臭いとか、公害と言って迷惑がられるようになったけれどね。世の中そんなもん」。おちゃらけた様で、まじまじと言ってましたが、何となくわかります。
<児童書>の定義がよく判りませんが、大人が読んだとして全然違和感がありません。感じ方は人それぞれでしょうが、どれも正解であることは間違いないですよね。
私事、子どもの頃のほうがよっぽど読書していました。
始めに、簡単な自己紹介がすすんだ時に、参加された皆様の多くが、何かしら書籍を巡ったご活動をされていらっしゃり、気おくれするような立場でもありました。それから、語られる物語の世界から展開して個々の身からご意見や質問が飛んで満ち溢れていくと、万人に平等な心の世界を覚え、閉会の頃には、私はここにいて良かったんだ、と強く安心出来た次第です(笑)。
途中、設けていただけた休憩時間に、振る舞われた手作りのお菓子がとても美味しかったです。
「排除する人の生まれない仕組み」、「正しいことしか通らない社会のまずさ」、という感覚については、現在の世の中で肝に銘じることと思います。そういう背景を伴えぬ状況は、臨戦態勢を支えることに繋がってしまいますよね。 時代によって常識も変わることを知るなら、表層に漂う結果のみに判断を奪われず、人を裁くことなく、物事を為す動機を大切に見つめたいです。
"by nature"の影響のこと、「三つ子の魂百まで」ということわざもありますが、原風景は、潜在意識に深く刻まれて、一生残っているものではないでしょうか。
とかく、レッテル貼りされることの多い著者ですが、刑期を終えたタイミングで出版されるに至った経緯を知りたくて、<自著紹介>をネットで調べ、納得しました。やはり、”総括”の意志が働いたのか、ということと、彼女が抱く純粋に理想を追い求める生き方と、それを活かす意味を示した作品と理解しました。
誰でも大なり小なり心の奥底に眠る幼い頃の記憶と栄養となった糧を持つでしょうが、それを掘り起こす作業に当たるエネルギーは、なかなか発奮しません。
自由にものが言えなくなった時代とも評される風潮を、静かに問う書だと思いました。事件や事故に際して、当事者には縛りが派生して掛かってくる圧力があるとすれば、自分事に至らない周囲の者としては、某かを醸成する役を担うことがあるものですよね。
その10
読書会に参加すると、同じ作品を読んでいるにも関わらず、皆さん実にいろいろな読み方をされるんだな思いますが(それが面白いのですが)、今回は特にそれを強く感じました。
その中でこれは実体験ではなく、おとぎ話なんだというお話があったかと思いますが、私はこれは「捏造された記憶」なのではないかと思いました。「記憶は捏造する」というのは柴田元幸さんがカズオ・イシグロの作品のテーマとして挙げたことの一つですが、この言葉に出合ったとき、私はふっと『マコの宝物』ってこれなのではないかと思いました。「捏造する」というのは語弊があるかもしれませんが、著者が過酷な環境の中(犯した罪の大きさと向き合うことも含め)で生きることの意味を自分に問うていくときに支えになったのがこの「記憶」だったと思ったのです。
彼女が実際に子どもの時経験した、美しい時と厳しい現実の中から「自分の中の子どもを育て」ていき、(加藤典洋さんの言葉ー清水眞砂子さん引用)記憶をいきいきと創り出していって、生きる支えにしていったのではないでしょうか。
そしてこの作品によって私自身の記憶の中にも呼び覚まされ、熱く、懐かしいものが生まれ広がっていったことをとても嬉しく思いました。
最後に、この作品に向かう清水眞砂子さんのお気持ちを伺う中で、清水さんの生きる姿勢を示していただいたことも、この会に参加できたことの大きな喜びとなりました。
その11
様々な年代や立場の方が集まったので、様々な読み方を聞くことができたのがおもしろかったです。
その時代がうまく描かれているのかは著者と同年代の方がわかっていて教えてくださったり、1人で読むだけでは気付かなかったことに気付いたりし、さらに深く本を読むことができました。
「読書会の課題本になるくらいだから良い本に違いない」と先入観もあり、だんだんと褒める感想ばかりになってしまったときに、「ほんとうにそうかしら?」と清水さんが投げかけてくださったのもよかったです。
私はやはり、子どもに手渡したい本かどうかを基準に考えます。その本の背景や著者のプロフィールを知ると、本の理解には繋がりますが「本そのもの」を大事にして考えることも忘れないでいたいと改めて思いました。
今回解説していただいたことがよくなかったということではなく、著者と作品を切り離して作品そのものの良さやちょっとどうかしらと思う気持ちも大切にしたいということです。
とりとめもありませんが、そして、これ!という答えがあるわけではないのですが、非常に勉強になった会でした。(図書館司書)
その12
百町森・柿田より
私は初めて手にした時には、やや退屈な話かなという思いや、方言になじめないなどの理由から、なかなか読み進めませんでした。でも第2章の「祭の日」で樵のおばさんがしていた「悪」?を見てしまって、マコの気が動転するところから、のめり込みました。この章の結末が今の道徳という尺度では測れないところに行く、ある意味あいまいなままですが、でも、それが本当に素晴らしいと私は思いました。ここからは、この本はプロの作家には書けないくらいの文学の大事なテーマが書かれているのかもと思い直し、すらすらというわけではなかったのですが、期待しながら読み進んでいきました。
2回目に読んだ時は集中して喜びとともに読み進みました。「くじらうり」のところでは、金銭合理主義では説明がつかない”世の中のしくみ”もマコも不満を感じていて面白いと思います。「やさしさのひみつ」「ハーモニカ」「コウちゃんが・・・」など、日本が近代化や高度成長期に忘れてしまったもを、ただのノスタルジックな話ではなく、今にも通じる人間社会がなくしてはならない潤滑油として書いていると思いました。無名な人たちが織りなす小さな共同体の暮らしの中に潜む宝石のような物語!でも、そこには、今を生きるヒントも間違いなくあります!
後半のガキ大将じいさまの登場するところも楽しく読めました。「お蔵入り」の話など、こういう大人はいなくてはいけない、自分が子どもの時には確かにいました。いえ、今でもいるのです、きっと。最後の章の戦争へ行かせない知恵はびっくりです。世の中の流れに抵抗できるこういう大人にならなくてはと思いました。
この本が世にでたことを心から歓迎します。文学として素晴らしいからです。少し美化しすぎのところもあるかもしれませんが、作者の特殊な経験があってこそ書けた、大人の中に住む子ども、もしくは子どもの中に住む大人(人格というようなもの)に何かしら作用する大切なものを書いていると感じます。
この本を評価する場合、どうしても著者の経歴に目が行ってしまいます。その場合は、犯罪は悪人だから犯すというわけではなく、人間なら誰もが善と悪の両面を持っているわけで、読む側もそれを引き受けて読まなくてはならないと感じています。
この度、28人ほどの方に参加して頂き、何人かの方には上のような素晴らしい感想も頂きました。とてもいい会になったと感じています。ありがとうございました。
当日の黒板の記述から