ル=グィン著「ゲド戦記」の読書会、参加者が寄せてくれた感想など
「ゲド戦記」等、すぐれたファンタジー作家であるアメリカ人のアーシュラ・K・ル=グウィンが2018年1月22日に死去されました。追悼の意味もあり、この年、「ゲド戦記」全6巻を取り上げ、ゲストに「ゲド戦記」の翻訳をされた清水眞砂子さんに来ていただき、読書会を開きました。
以下、「ゲド…」1〜3巻について
参加する方からあらかじめ印象に残った箇所をあげて頂きました。
1巻『影との戦い』
●文庫p.126「カラスノエンドウがその本名をあかしてくれるとは!なんという贈り物だろう。人の本名というものは、本人と名付け親しか知らないものだ。」
→ゲド戦記は、子ども時代に初めて読んだハイファンタジーでした。真の名前という概念?を知って、憧れました。自分にも誰か真の名前を授けてくれないものかと。私にとってのファンタジーは、ゲド戦記から始まりました。
●「真の名前」を知るとその人を支配できるという面白さや、「影」の名前を知るという結末の圧倒される凄さ。→こういう着想、発想はどこから得たのかと思う。文化的背景があるのか?
●ゲドとカラスノエンドウとの友情も好き。→自分と自分の友人のことを考えてしまう。また、ノコギリソウの登場など、カラスノエンドウの家に行った時の、ほっと一息感がたまらまい。
●文庫p. 216〜226ハヤブサに変身したゲドがオジオンの家で人間に戻ったときの2人の会話など
●文庫p. 268〜300カラスノエンドウの住む街で、二人が再会し、ゲドの旅に同行する。
→40代になってから初めてこの物語に出会ったので、「英雄物語」としてだけではない印象をうけました。
●p98ゲドがエルファーランの魂を呼び出してしまう場目。物語の発端。力を有する者の傲慢さから至った愚行。
●p222「自分がしなければいけないことは、しでかしたことを取り消すことではなく、手に付けたことをやりとげることだった。」
→自分を振り返っては、しでかすことの連続だったが、いつも心にこの浮かべては自分を奮い立たせて歩んできました。悔やんでも問題は解決しない、何をなすべきかが大切だと教わった。
●〈光と闇〉について1 ソフトカバー版 p74 冒頭からは引用しないが、目くらましの術についての長の言葉 7行目 「宇宙には均衡、つまり、つりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡を揺るがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん。そして、まこと、それが必要となる時まで待たねばならん。あかりをともすことは、闇を生み出すことになるんでな。」
→このあとの若いゲドの返答にも注目、この時、ゲドはオジオンと同じことを言うと批判をしており、最後には(思う存分好きなことができて、宇宙の均衡とやらも、こっちのいいように変えられるんだから。闇だって、こっちのともすあかりで押し返せるわ。)このゲドの言葉そのものの展開が、ゲド戦記の『影との戦い』、そして『さいはての島へ』とつながるのではないか。
●〈光と闇〉について2 成長しているゲドは、同書のp269の左から10行目からのノコギリソウとのやりとりで光について語っている部分がある。
「光は力だ。偉大な力だ。われわれはそのおかげでこうしてあるんだもの。光はわれわれが必要とするからあるんじゃない。光はそれ自体で存在するんだ。太陽の光も星の光も時間だ。時間は光なんだ。そして太陽の光の中に、その日々の運行の中に、四季の運行の中に、人間の営みはあるんだよ。たしかに人は暗闇で光を求めて、それを呼ぶかもしれない。だけど、ふだん魔法使いが何かを呼んでそれがあらわれるのと、光の場合はちがうんだ。人は自分の力以上のものは呼び出せない。だからいろいろ出てきたとしても、そんな目くらましにすぎないんだ。」そしてその術は決して軽々しく使ってはいけないと結んでいる。(均衡については、おなじソフトカバー版の『さいはての島へ』の122Pにたっぷりと記されている。)
2巻『こわれた腕環』
●p212「彼女が知り始めていたのは、自由の重さであった。・・・自由は与えられるものではなくて、選択するもの。」→それまでの重荷、閉塞感。隠遁生活から解き放された時のアルハが感じた戸惑いに共感。それまで彼女を縛ってきた事柄は、彼女の拠り所にもなっていた。そして、ゲドとの出会いに要る価値観の転換。自分の意思で物事を選び取ること。それが自分を生きていくということ。
●p75アルハには、人それぞれがおたがいどんなにちがっているか、どんなにちがったものの見方をするものかがまだわかっていなかった。彼女はふと目をあげた窓の外に、まったく新しい巨大な惑星が人間をいっぱいのせて浮かんでいるのを見たような思いがした。 →与えられた生き方ではなく、自分の生き方を語るペンセを、りんごのようにみずみずしく、きれいだ、とおもいながらも、それを暗い目つきで見つめるしかないテナー。信じていたものが少しずつ崩されていくことを象徴したシーンと思えて好き。
●ハードp133テナーがゲドの目くらましの魔法でトルコブルーの絹のドレスをいつの間にか着ているところ。→この部分のセクシャルな感じや、自由を求めて飛び出そうとしていながら何度も心が揺れるなど、2巻全体が「女性」性を感じる(そういう意味では1巻は「男性」性)。20代で初めて読んだ時は1巻と違い過ぎてなかなか読み進めなく(「ゲド戦記」という名前とのギャップも)、面白さをほとんど感じなかったのに、『帰還』の会で皆の話題に上ったことを頭に入れながら読んだせいもあってか(4巻を読んだ後で、連続性も見えたせいか)、今度は楽しく読めた。
3『さいはての島へ』
●文庫p331 ℓ1「・・・・・・あの方の死はあの方の生命を失わしめはしなかった。・・・・・・死んだ人々はみな生きている。死者は朽ちることなくよみがえり、永遠に果てることはないだろう。ただそなたは別だ。死を拒んだからだ。そなたは死を失い、死を失うことで、同時に生を手放した。・・・・・・」
●文庫p332 ℓ4「・・・・・・そなたには日の光も見えなければ、夜の闇も見えない。そなたはそなた自身を救うために、緑の大地も、太陽も、星も、みんな売ってしまったんだ。だが、今、そなたに自己と呼ぶべきものがあるか?ない。そなたが売ったのは、そうよ、そなた自身だったんだ。そなたの自己だったんだ。・・・・・・」
→小さい時、人間には、自分には『死』というものがあるんだということが分かった時、とても恐ろしかった。周りの人たちがどうして平気でいられるのか不思議でしょうがなかった。そうしていくうちに「じゃあ死のない世界ってどうなんだろう」と考えるようになり、今度は死ぬことのできない世界ってものすごく苦しい世界で、あり得ない!」と思うようになった。自分が漠然と思っていたことが、ル=グウィンの言葉によって目の前に描かれていることに共感を覚え、「死」があるからこそ「生」が輝くという言葉にも素直にうなずけた。
●文庫p257 ℓ7「・・・・・・ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け容れる力だ。」→つくづくその通りだと思う。老いや病や死を受け容れる。苦しみを受け容れる・・・・・・難しい!人を受け容れる・・・・・・梨木香歩『春になったら苺を摘みに』のウエスト夫人の「理解はできないが、受け容れる」という生き方を思う。これも難しい!
●p23真ん中あたり「しかし、今や、アレンの奥深いところで眠っていたものが目を覚ました。それを目覚めさせたのは遊びでもなければ夢でもなかった。それは人に対する敬意であり、迫りくる危険であり、そして知恵だった。」→人(自分の常識の範疇にないような人)に出会い、危険に出会い、知恵をしぼることがいかに大切か。
● p71「ある人生とする人生」 「ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような…それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間」
● p76「竜は夢など見ない。竜自身が夢なのだ。…竜はまた、ことを為さない。彼らは在るだけだ。」
→竜って子どもに似てる?自分自身は、することに追い立てられている毎日。隙間を愛したい。
●p71.最後から2行目「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択を迫られたときには。まだ若かったころ、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしは鱒がハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だがわしらは何をしてもその行為のいずれからも自由になりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、またつぎを生む。そうなると、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。ひとつの行動とつぎの行動の間の隙間のような、するということをやめて、ただ、あるという、それだけでいられる時間、あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね。」 これほどの男が、自分とは何者なのか、と考えるなんて!アレンはそんな疑問は、まだ何もしていない若者だけが抱くものだと考えていた。
→自由ってなんだろうと考えさせられた。ひとつの行為が次の行為を呼び…というのはすごくよくわかる。「これほどの男が自分とは何者なか」と考えるなんて!とアレンが思う事に共感した。こんなにたくさんのことをしてきた人が、自分とは何者だろうと考える時間、ただあるという、それだけでいられる時間を大切に思っている事が、すごくいいな。と思った。
●p130最後の行からp131全部 とくに、アレンはふと、その顔を照らすものが、人間の顔を、しわまでも消してくまなく照らす、あの冷たい魔法の光ではなく、自然界の光そのものであることに気がついた。夜が明けた。朝の日の光が今あまねくあたりを照らし始めたのだ。大賢人の力より、さらに偉大な力があったのだ。そして、経てきた年月は、ハイタカにだけ特別のはからいをするなどということはしていなかった。今、大賢人の顔に見えているのは年輪が刻んだしわだった。彼はひどく疲れているように見えた。あたりはしだいに明るくなっていく。大賢人はあくびをした…。
→自分にとって大切な事を言ってくれる人。すごく尊敬している人を、でも、自分と同じ人間なんだ。と同時に思う事が、そのことにすごく安心する事が自分にもあったし、今もあるな。と思い、とても好きな場面です。
●p167「ところで、彼らには何が欠けていると思う?」「生きる喜びだとおもいます。」
→心がすっきりするような、すごく腑に落ちた場面。人間らしく生きるために必要なことはこれだなと思いました。
● p256 真ん中「アレン、良い人間とはどんな人間かな?…から p257真ん中…それは何かを獲得する力ではなくて、受け容れる力だ。」
→迷いや怖い者は、実は自分の中にあることを感じた。また、この章のなかで何度もゲドが言っているが、何かをするのではなくて、しないほうが難しいこと。何かを獲得する力ではなく、受け容れる力が、本当の力だ。と言っている事。そのことがとても心に残り、それは四巻の帰還で感じた事と一緒だなと感じました。
本当の力とは受け容れる力。受け容れるとは…とすぐに答えが出ないことばかりだけど、ずっと心に残しておきたいことだと思いました。
●p226 7行目後半『無垢』についてもよく出てくる
「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある」
→おぼろげだが、この無垢と、ただ在るだけだと書かれていた竜につながるようにも思う。わたしの中では、テハヌーにも。
https://www.jiyu.ac.jp/college/blog/ga/63483
ゲド戦記を読み直しをしている時期だったので、偶然の出来事に驚きを感じました。
そのなかでとても興味深い部分があるので一部抜粋します。
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この字をよく見てください。門構えに音とあります。門は密閉です。閉じ込められているのです。何も見えません。
しかし、その中で音が聞こえるのです。闇が深ければ深いほど音が聞こえてくるのです。わたしにとってこの音こそが救いの予兆のような気がするのです。研ぎ澄まされた五感が神聖なものを呼び込むような気がするのです。
語義の説明では、門は聖人を祭った神聖な場所<廟>を表し、「音」は廟の中での神からの「音なひ」を示すのだと云います。「音なひ」は、「おとずれ」とも関連するものです。神のお告げが現れる場が闇だとも云うのです。
ですから、語義的にも漢字の「闇」は不吉なことのみを指すものではありません。
闇の向こうにあるのは救いなのです。神のあらわれる前提と云ってもいいでしょう。
眼を閉じると云うことは、自らの行為の中で、暗闇を感じることです。目を閉じる、瞑目という行為なしに祈りはあり得ません。
闇と対照的に想起される言葉は「光」です。
聖書の中で、「闇」と「光」について触れている箇所がいくつかあります。
今日引いたのは、ヨハネによる福音書第1章4節〜5節です。
「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
命が光であるとするならば、闇は死でしょうか。絶望でしょうか。闇がなければ光はあり得ないのです。「闇」は光の前提なのです。命は、「闇」を通じて生まれてくるのです。「光」のみでは、「命」は生まれないのです。
以下、会で取り上げられた話題など。
1巻『影との戦い』
10代で読んだ時、自分との戦いというのが衝撃的だった。若者向きと思っていたが、今の自分に腑に落ちる。出会えて幸せ。
小5で読んで面白かった。以後、ファンタジーを読む基準、原点に。一人の人間が考えたというより、世の中の概念が集まっている作品のよう。
「真の名」ー名前の重要さ→インディアンの世界の名付けなどから来ているのか。「千と千尋の・・・」にも。沖縄の童名を12〜3歳まで使う風習がある。トルコ人も別の名前で呼び合う。
ハヤブサに向き合うオジオンの言葉が大人の自分に響いてくる。出ていくことを止めないふところの深さ。本当にこれでいいのか? 親の立場として自分にできるか。自分が問われる。
友だちが「スマホを手に入れた子が全世界を手に入れた気になっている」と言った。そういった「力」でしか人と関われなくなるとしたら怖い。ル=グウィンは力の怖さを知っている。魔法と言ってもじゃんじゃんやるのではなく「均衡」を大事にしている。「戦記」と言っても戦いは力を得るためではない。
好きな言葉→「聞こうとするなら黙っていなくては」影を追うときの独り言。
オタク(ゲドの肩に来る動物)とは?→清水「ル=グウィンは野生の大事さを言っている。野生(ワイルド)に任せる。人工的なものでない野生から導かれる大切さ。オタクにそういうものを見る。ふと、絵本『もりのなか』のウサギとそっくりでは?と驚いた。森をどうやってくぐり抜けるかという時の必死の空想。必要な時にだけいて、いつの間にか消える。」オタクやウサギが主人公をどこかで支え、助けているということか。
2巻『こわれた腕環』
迷宮のところは怖い。ゲドはいつのまにかいた。どこから、なぜ入ってきたのか? 腕環を探しに来た。「エレス・アクベのいさおし」の歌にその謂われがあった。指輪が一つに完成するとなぜ、どこに、平和が訪れるのか? アースシー?カルカド?
青いドレスのところがセクシャル。ここは著者が女だから書けたのかも。
アルハの心変わりは女だから?若いから?
ペンセが登場、ブタ飼いと結婚する話などし、それによって自分と違う考え、違う世界を知る。
地下の世界が随所で見られるというのはちょっと都合がよすぎるのでは。
アルハが自分の部屋から下にいるゲドを見た時や、外に出てからゲドがアザミの根元で寝る時など、男性の寝顔を見るシーンは、テナーに恋心が芽生えているということか。
清水「若い人でこれが恋の話だと気がつかない人がいる。」「ストーリーがまるでシンデレラコンプエックスのようだと批判する人もいるが、ゲドもテナーに助けられるわけだから、それは当たらない。」「4巻は実際には2巻出版後18年経ってから出たが、構想は3巻を世に出した時にすでにあった。ル=グウィンは本当はすぐに出すつもりだったが、テルーの境遇をどう設定するかで時間がかかってしまったようだ。」
3『さいはての島へ』
p23,p63アレンが独り立ちしていく場面→わが子がピアノを演奏していて突如弾き方が変わる時があった。親から独立する事への気の咎めが母への贈り物。
p64剣に対しての思い。
p71普段追い立てられる生活、隙間の時間を大切にすることを教えられた。ゲドのような男でもこれほどまでに考えることに共感し、ただあることに意味を持つことを素敵だと感じる。
p76竜は子どもに似ている。
p130大賢人でありすごく尊敬しているが、同時に自分と同じ人間なんと感じるところ、アレンと同じ年の頃そう思うことが自分にもあった。
p256力とは獲得する力ではなく受け容れる力。受け入れるとは何かを考え続けたい。アレンが何かを獲得する・・・それが若いということか、60を過ぎると一生懸命してきたが…。社会が受け入れることに「脆弱」では。
p331エレスアクベの死について→影あるから光がある、死があるから生がある。
p332→4〜5歳の時、『死』が自分にも来ることに気づき、恐ろしくて仕方がなく、皆が平気でいられるのか不思議だった。でも死ねない世界も恐ろしいと考えるようになり、今回、ル=グウィンの「死」があるからこそ「生」が輝くという言葉を実感した。
p226 7行目後半『無垢』について→「ただあうだけ」の竜ともつながる。光と影、宇宙の均衡が強くかかれている。
光のみで命は生まれない。1〜3を通して「均衡」をメッセージとして受け取った。
「キリスト教の影響を受けているか」の質問に対し→清水「ル=グウィンはそういう質問をしても"コンポスト(混ぜて新しいものを作るというイメージか?)”と答えるのよ。」ということでした。
翻訳されたときのエピソードも大変興味深かったです。機械のない道具の時代に思いを寄せ、時間の流れだけでなく、その長さ、テンポ、リズムを意識されたと。壮大な物語を日本語で丹念に表現されていったことに、あらためて敬服しています。「くらしの中の言葉が生き方に結びついていく」ということを意識して生活していきたいと思います。
ディスカッションしている時は、一番気になる部分は、均衡や、
わたしは印象に残ったところにも書きましたが、
ゲドはクモにたいして、
ゲドは過去の自分にも、あらたに勝つためにも、無垢である存在のレバンネンと共に旅をする必要があったのではな
哲学をするは、それぞれの考えを聞くことができ、
「ゲド戦記」は、ひとりで自分の中に潜っていかれる物語で、
2度目、巻によっては3度目の読み返しでしたが、
でも、皆さんのお話しをうかがいながら、
沈黙、均衡、真の名など、
私は、初めて読んだのが鬱屈としていた時だったせいか、『
でも、子どものころ初めて読んだ、
他の参加者の皆さん、翻訳者の清水さんのお話を伺いながら、
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清水さんが翻訳するにあたって、その文化の状況に近い体験をしてその時代の時間の流れに合った文章にする(と受け取りました)とのお話しを聞き、そういうことはあるに違いないと納得しました。また、学生さんがゼミの中で理解が深まるにつれて顔や話し方が変わってくるというお話もあり、それもこのことと通じているように思いました。「わかる」ことは「変わる」ことだという考えがありますが、身をもって理解をする経験をすると、確かにふるまい方が気づかぬうちに変化することがあります。自分自身ではわかりませんが、他人の変化についてはよくわかります。
私は保育者養成の仕事をしていますが、学生が保育実習に行って子どもとの「真の言葉」でやりとりする生活をして帰ってくると、表情がすっきりというか、深くというか、“何か”が変わったことがわかります。「余分なものがそぎ落とされたような感じ」と表現した同僚もいました。本を読むゼミでも自分の深いところで考えることができると、そんな変化があるんですね。自分の体をくぐった言葉で語り、考えることの大切さを改めて感じたひとときでした。
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毎回、参加者のみなさんが深く読んでいらっしゃることに感心。それぞれ初めて読んだ年代も違えば、心に残るところもちがうのがおもしろくて、もう一度読みたい気持ちになって帰りました。
清水眞砂子さんから、翻訳は10年くらいで見直すということを伺って、文庫版も読みたくなりました。流行の言葉を使った作品は逆に古くなってしまう、というのもなるほど!でした。で語られる世界を忠実に翻訳で再現するというていねいな仕事のお話。その翻訳のおかげで私はアースシーの世界にすーっと引き込まれていけているのですね。もしかしたら、物語が下りてきて書く作者よりも翻訳するほうが時間がかかっているかもしれませんね。
「(皿洗いを)ゲドだってしてくれるのよ」と訳しそうになったのを、お連れ合いとの会話の中で「ゲドだってするのよ」とすべきと気づいたという話、ささいなようでまったく状況がちがってしまう言葉遣いのエピソード。機械の時代の言葉と道具の時代の言葉のことなど、真の言葉が世界を作っているんだなあと、感心しました。
と気になって調べたら普通に「husband」でした。これを「つれあい」と訳したのは、清水眞砂子さんならではだ!と、嬉しくなりました。物語の内容はさておいて、その世界観を作る翻訳の言葉のことばかりになってしまいました。(英語教室主宰)
そんな私にとって大切な物語の読書会。ましてや翻訳者の清水真砂子さんとご一緒なんて!夢のような時間を過ごすことが出来ました。今回はシリーズ前半の3冊『影との戦い』『こわれた腕環』『最後の戦い』についてグループに分かれて感想を話し合い、その後全体で発表する形で読書会は進みました。読み手によって、気になるところや心に残るところは色々。同じエピソードでも様々な受け止め方を
知ることができるのが読書会の興味深いところです。私は『こわれた腕環』のグループに入れていただきました。
『こわれた腕環』は他巻と違って女性的な視点に重きを置いて書かれた作品。主人公はゲドというよりテナー。闇の神殿に使える大巫女の生まれ変わりとされ、崇め奉られて育った少女テナー。ゲドとの出会いで幽閉された世界の嘘と偽りの自分に気が付き自由を手に入れるというストーリー。テナーの心の動きに自分のこれまでの経験を重ね合わせ、特に自由になった時の戸惑いに共感しました。物語の中では「彼女が今知りはじめていたのは、自由の重さであった。自由は、それをになおうとする者にとって、実に重い荷物である。それは、決して、気楽なものではない。」「自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではない。」と語られています。この言葉は、日本の現状を見渡すとき、私たちの心にしっかりと刻まなくてはいけないと感じまし
た。
物語の随所に散りばめられたグヴィンからのメッセージ。それをいかに日本語で伝えるかに真摯に取り組まれている清水真砂子さん。玉座に続く階段の高さ、それを這い上がる幼子のイメージ。物語の些細な部分までも確かなものを求めて積み上げていく緻密な作業。「翻訳家と演奏家や演出家の作業はとっても似ているのよ。」と話してくださったエピソード。グヴィンとのやり取りの様子、ここでしか聞
けない裏話の数々は私の宝物です。壮大な物語を紡いだグヴィンはその源を「熟成」と話していたそうです。
次回は『帰還』『アースシーの風』『ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)』の3巻。清水真砂子さんからはアフガニスタン問題などが物語の背景に感じられるかも、というヒントをいただきました。読み進めるのが楽しみです。
そんな状況を救ってくれるのが、豊かな感性を持った人と出会い話しをすることです。私にとって、それは20歳くらい年上の先輩が、そんな貴重な一人でした。自分でも行き詰まってしまったなと思ったときに、わがままを言ってその先輩のお宅を尋ねさせてもらったことがあります。少し話をしているうちに、自分の心の中にすーっとエネルギーが湧いてくることを感じました。自分の心が柔らかくなっていることを感じ、来たときと全く違う自分になって帰るとことができたように思いました。
今回の清水先生との読書会でも、同じようなことを感じました。もちろん、ゲド戦記の読書会ですから、第1巻に出てくる“オタク”が、エッツの『もりのなか』のうさぎと同じ野生の導き手としての役割を果たしているとか、清水先生自身が、男の子を育てた経験がないので、ゲドにどのような日本語を話させればいいのかで悩まれたとか、示唆に富むお話を伺えたことも、とても興味深いことでした。しかし、私にとっては、清水先生と同じ空気を共有でき、そのことで、自分の感性がチャージできたことに、より感動したのです。
清水先生の醸し出す心地よい空気感は、得難いものだと思います。それは一つには、物腰の柔らかな話し方や立ち居振る舞いから、生み出されていると思います。しかし、それだけでなく、未だに作品をよりよいものにして読者の手の届けようとしている姿勢、つまり、70歳を超えた〜女性に年齢を言うのは失礼ですが〜今でも、学び続けている真摯で謙虚な姿勢によっても、生み出されているのではないかと思います。年をとるほどに感性を柔らかく磨いていくということは、とても難しいことだと思いますが、この点でも清水先生の生き方はとてもよいお手本になっていると思います。
こんな素敵な出会いの場を提供してくださった『百町森』の皆さんに感謝いたします。もう一度、この心地よさを味わいたくて、日々の仕事の合間を縫って、今、ゲド戦記の4巻〜6巻に向き合っています。
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以下、「ゲド…」4〜6巻について
参加する方からあらかじめ印象に残った箇所をあげて頂きました。
4巻『帰還』
岩波少年文庫版「帰還」243ページ
レバンネンはなにごとにも真剣で、きまじめで、自分の地位が求めてくる形式という鎧に身をかためていた。が、誠実で純粋なゆえに、ひどく傷つきやすいところも持っていた。テナーはそんなレバンネンに心ひかれ、いとおしさを覚えた。この若い王は自分ではすでに十分つらい目にあってきたと思っているが、この先ずっと、何度も何度もつらい目にあうことだろう。しかもそれを、ひとつとして忘れることはないにちがいない。
この若者はだから、ハンディのようにいい加減なことをする事はないだろう。
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四巻は、テナーの言葉や考えに自分はどういう答えを持っているだろうかと自問することが多い巻でした。納得しつつも所々愚痴に聞こえたり、女性でないが故に体で理解できない自分にもどかしさを感じたりしながら読んでいた中、この言葉には感激しました。最後の一文は何度も反芻し、こうやって人を見ることのできるテナーに嬉しく感じるとともに、テナーの半生あっての言葉になお一層の共感を覚えました。
ゲド戦記の後半を読んでいて頭の中に浮かんできたテーマは「信頼」でした。
正直なら信頼できるわけではない。正直さはどこで見るかというと、その人が自己の負の部分をどれだけ引き入れているかというのが私が常々感じているところです。
テナーのフレーズはまさにそれを示すものであり、人が生きていく中での大事な芯として読めました。
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その後五巻を読んでいると何と「信頼」がキーワードとして出ており(98頁)、びっくりしました。
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p.344 「女は信頼するように教えられている?」・・・「いいえ、信頼なんてまるで。」
自分自身の社会経験において、信頼に力を与える人間関係、上下関係は男性的と感じていたことを思い出した。こいつは信頼できると判断すると、一歩踏み込んで会話をし、チャンスを与える。相手が困っているときはフォローし裏切らない。この感覚が横行している。
少なくとも私は、信頼できるかという視点ではなく、体験の共有や共感で女性同士の友人関係を築いてきたところが多く、会社の中で信頼を積み上げていく関係、またそのようにして力を上げていくことを学んだように思う。
ただ、退社してみれば、会社の肩書きがある上で、同じ目標あって与えられる信頼が大部分。信頼は、肩書きやレッテルにとても影響されやすいとも思う。ただ、真の力は信頼のなかにこそ見出されるのではというテルーの前向きさには共感したし、今後の女の人生後半戦へのヒントになる気がした。
魔法使いが対象物の真の名前を知ることで力を及ぼすというのは、相手を理解することで真の信頼が生まれることにも通じるように思う。
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5巻『ドラゴンフライ』
アニエブという女性の存在。(「カワウソ 2カワウソ 3アジサシ」より)
●ハードp81文庫p98「秘密をあかしてもらっていいんですか?」少しの間をおいて、カワウソはたずねた。「だって、もうご存知よ。あなたはそれをアヤメにくださった。あの娘もあなたに差し上げた。信頼です。」
●ハードp114文庫p137「あの女(ひと)はわたしに自由をくれたのです。」メドラは言った。「わたしは今でもまだ、何をしても、それは彼女を通して、彼女のためにやっているような気がします。いや、彼女のためじゃありませんね。死んだ人のためにできることなんてありませんから。そうじゃなくて・・・・・・。」
「わたしたちのため。」モエサシが引き取って言った。「殺すことも殺されることもなく、ひそんで暮らしている私たちのため。死んだ人は死んだ人だし。権力を持ったお偉いさんたちは、誰にも邪魔されず自分たちの思いどおりに生きていくし。どうということのない無名の人びとのなかにしか、希望は残っていないと思うわ。」
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メドラ(カワウソ)がアニエブに対して思っていた気持ちが切ないほど伝わる。
その後、モエサシと恋に落ちるところ文庫p134もどこか切ない。
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様式の長の存在、態度、言葉(「ドラゴンフライ 3アズバー」より)
●ハードp368魔法使いはもの静かな男だった。内に激しさを秘めていたが、アイリアンには一度たりともそれを見せることはなく、彼といると、森の木々や、時おり姿を見せる鳥やけものといるように、心が安らいだ。
前もって言っていたように、彼は彼女にものを教えようとはしなかった。ふたりで逍遙するこのふしぎな森のことをきくと、・・・木々の根っこにはありとあらゆる魔法がひそんでおり、またその根っこはかつてあった森や、これから誕生するかもしれない森の木々の根っことつながっているんだよ、と話してくれた。
●ハードp369「私の言葉など無に等しい。木の葉の音を聞いてごらん。」と言った。彼の言ったことで教えと呼べそうなのはそれだけだった。
●ハードp370「外より内がずっと大きい」
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この人が格好いい。どこか東洋思想的、あるいはヒッピーのよう。
魔女のバラとの会話(「ドラゴンフライ」より)
●ハードp325力を持つってことは、好き放題に人を動かしたり、金もうけしたりすることじゃないんじゃないの?
カゲロウの言葉(「カワウソ 3アジサシ」より)
文庫p108「・・・様式にのっとらなければ、物事は正しい方向に進まない。自由はそこにしかないんだからね。」魔法使いヘムロックの言葉(「ダークローズとダイヤモンド」より)
●ハードp191「均衡を保つんだ。それ以外にない。」「大事なのは知識、秩序、抑制」
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2001年の9.11を予言しているよう。
文庫p142ロークの魔法学校ができるところ。(「カワウソ 3アジサシ」より)
文庫p424〜7アイリアンとゾウゲの会話が面白い。アイリアンが愛らしいし頼もしい。(「ドラゴンフライ 2ゾウゲ」より)
ダークローズとダイヤモンド
父親のゴールデンの考え方や価値観など、共感できることはあまりなかったし、最初、あまりすきじゃないなあと思っていたけれど、読み進めていくうちに、ダイアモンドへの不器用な愛情を感じた。何だかピントがずれているけれど、深い愛情。
ダイアモンドを魔法使いのもとへ送り出すとき、帰ってきたダイヤモンドを迎えるとき、予想していたゴールデンの反応や言葉と違い、あれ?あれ?と、自分の中のゴールデン像が代わって行った。
そして、p267 最後から4行目から、
、ダイヤモンドが出て行ってから、ゴールデンの商売はかつてない繁盛ぶりを見せた。…
ゴールデンはしかし息子を許さなかった。許せば幸せな結末を手にできたかもしれない。だが彼はそうしようとはしなかった。あんなふうに出ていくとは。… というところ。利益を最優先して、お金になるかどうかを物を考える基準しているように見えていたわたしのゴールデン像が崩れた。ゴールデンは息子にそばにいてほしかったんだな。大きな愛情を感じた分、ああ、何だか悲しい話だなあと思った。魔女に対する軽蔑の気持ちを捨てられたら、「幸せな結末」だったかもしれないとも思ったが、それはゴールデンにとって難しいことだったのかもしれない。
p268トゥーリーは長い間、夫と苦しみを分かち合った。
トゥーリーはそんなゴールデンの不器用さを分かって共感はできなくても愛していたのかなあと思う。
最後の
しあわせな結末とは言えなくても、それは、至福のひとときだった。つまるところ、これ以上何を望むことがあったろうか。
という終わり方になんだか救われる気持ちになった。
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「地の骨」
ゲドの師であるオジオンの若かりし頃の話。そういえば、オジオンが大地震を沈めたことはこれまで物語の中で話されてきていた。オジオンが大魔術師と称される由縁。読み進めるうちに自分の記憶から紡ぎだされてきたのは懐かしさと安堵感。人里離れた台地にひっそりと暮らすオジオン。傷つき、疲弊した者がその体と魂を癒すために幾度となく物語に登場する小さな小屋。自分も行く末はオジオンのような暮らしをしてみたい。
その身を大地と一体化させ「地の骨」に寄り添い落ち着かせ、地震を鎮めたオジオンの師へレス。人は皆死して尚、大地となり風となり海の一部となって残された者たちの生命を支えていく。その体を形作ってきた成分は分子や原子に戻り、地球を構成する成分に姿を変え、この生命の星を守り続けている。今は姿なきへレスもオジオンもやがてはゲドもそして私たちも。
今の私たちは、残される者たちに果たしてどれだけの思いを馳せているのだろうか・・・今、世界で起こっている事柄は責任の先送りばかり。後世への慈愛は引き継がれていくのか?そんな焦燥感にかられます。
〜おまけ〜
へレスの師匠が魔女だったことに、グウィンの想いを感じました。
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6巻『アースシーの風』
●文庫p18ゲドの言葉「昔はなんでも急いでしなければと思ったものだが、そんなことはそうそうないからね。」
●文庫p24自分をとりまく暮らしの風景が毛布のようにからだを包んでくれる。
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日常の厚味を感じる。
●ハードp316 アイリアンの言葉
「不滅の生命ですね。」・・・セペルが・・・。「しかし、どこに? どこにそんな国があるのです?」呼び出しの長がきいた。
「別の風の吹くところ。西の果てのそのまた西よ。」アイリアンはそう言うと、怒りとさげすみのこもったまなざしで一同を見まわした。「あなた方はわたしたち竜がこの世の風にだけ乗って・・・
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黄泉の国ではなく西方浄土のような所?
●ハードp308 レバンネンの言葉
賢人中の賢人といわれた方は予言されました、世界は大きく変化すると。わたしたちは力を合わせて、なんとかしてさぐりあてなくてはなりません。どんなことが起こるのか。原因は何か。事が起こったあと、世界はどこに向かおうとするのか。どうしたらわたしたちは戦争と破滅から協調と平和への方向転換をなしうるのか。・・・
●ハードp336 様式の長の言葉
「つくられたものはこわされ、こわされたものは全きものとなりましたな。」
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これは9.11以降に書いたのか?
●ハードp342 6巻の終わりの部分、全6巻の終結部分
テナーは疲れていた。こんなとき、・・・おいしい赤ワインの入ったグラスを手に、ゲドとすわっていられるなんて、なんとありがたいことだろう!
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ゲドはこんなふうに話すテナーの顔をにこにこしながら見ていた。ゲドのこの包みこむような、やさしい笑顔は、思いこみもあるかもしれないけど、でも、たぶん間違いなく、わたしだけしか知らないものだ、とテナーは思った。
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「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ。」ゲドは言った。
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「ねえ、私の留守の間、何してた?」テナーはきいた。
「家のことさ。」
「森は歩いた?」
「いや、まだ。」ゲドは答えた。
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全6巻の最終章の終わり方 泣けるほど嬉しくなる。森に散歩に誘うテナーがいい。
「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ。」とはどういう意味か?
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●70p 左から4行目
「いいほうに変わるといいですね。」とハンノキは言った。
「そうだな。」老人は言った。「だが、とにかく、変わらずにはいまい。」
その前の70p左から7行目には、アイハルが亡くなる間際に『何かも変わった。変わったんだ。』
というシーンがある。
ゲド戦記5『ドラゴンフライ』の138p右から5行目の箇所でヴェイルが「ロークではあらゆる魔法が強い。(中略)ここは安全だし、強盗も人殺しも目をつけたりしない。だってここにはお偉いさんなんてひとりもいないから。そのうち、いつか、竜が加わってくれましょう。千年後のことになるかもしれないけれど」
わたしは順番として、アースシーを読んでからドラゴンフライだったこともあり、このヴェイルの予言のような発言を読んだ時に、結末までの流れが一本の道でつながりました。
●97p左から9行目から97p最後まで
ハンノキはなぜ自分のようなものがこんな荷を背負うことになったのかと死者として選ばれたことをずっと訝しんでいる。しかしハイタカがこうこたえている。
しばらくハンノキの顔を見つめたあと、真の名前で呼びかけて、言った。「ハラ、たしかに世界は広く、謎に満ちている。だが、わたしたちの心のほうもそれよりもっと広く、もっと多くの謎に満ちているんだよ。ときにはそのことも考えてみるがいい。」
●『再結集』でもやはり道案内はハンノキだった。
このシーンの時に思い出したのが『さいはての島へ』での226p 7行目
「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある。」
結局、アイリアンも、テハヌーも、ハンノキも石垣を壊すために重要な役割を持っていたのは
この無垢な人たちなくしては、始まらないし、終わりもしないと考える。
●あとなんといっても、『再結集』の最後のゲドとテナーの会話がとてもいい。
こういう終わり方でよかったと思う。
もうひとつ。
『ドラゴンフライ』でも感じたが、アズバーは、アイリアンに、またはアイリアンもアズバーに恋をしている。
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言葉を越えるもの 言葉(の違い)が妨げるもの
・ハンノキに与えられた子猫ヒッパリ
・竜の言葉…シンバルのよう
・テハヌーは、ハード語と竜の言葉
テナーは、ハード語とカルカド語(テナーにとっては故郷の言葉 P270「失われた子ども時代のすべてをよみがえらせてくれるカルカド語」
しかしテナーは言う「P137テナーは自分があんなハートハーのような、後れた未開の島に生まれなくてよかったと思った。…ハブナーにいる間は私があの子の力になってやらなくっちゃ」→ずいぶん上から目線な見方。
・セセラク・・・カルカド王国の王女なのでカルカド語
ハード語を話す人々を「呪われたまじない師たち」P193
テナーにハード語を学ぶよう言われる(P198お互いの言葉ブツブツバガバガとしか言えないとしたら)
・「分割」と「統合」?「分割のままの共生」?
P234竜は、自由と火と風を選び西へ。人は、くびきと水と大地を選び東へ。
(石垣が崩れて死者に永遠の眠りがもたらされた時の場面)P369中ほどの呼び出しの長ブランドが「ブランドは竜のことばを天地創造のことばにしてくり返し、それをさらにハード語に置きかえて、言った。「分割はいま分割を見た」
様式の長「つくられたものはこわされ、こわされたものは全きものとなりました」
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『ゲド戦記』4〜6巻では、全体の中でも4巻、6巻が今までは心に残っていましたが、
今回読み直してみて、5巻『ドラゴンフライ』に強く引き込まれました。
以前に読んだ時にはいわゆる「外伝」として本編を補い、支え、彩る5編のような感じで楽しんだのですが、今回はこの5巻を読むことで、『ゲド戦記』全体が豊かに感じられるように思いました。
今回は「まえがき」から注意深く読んだためかもしれません。
5巻P9、ℓ10「『帰還』が出版されて7,8年たった頃、私はアースシーを舞台にした物語を書かないか、と言われた。ちょっとのぞいてみると、私が見ていなかった間に、アースシーではいろいろなことが起きていた。もどっていって、「現在」何が起きているのか、見きわめなくては、と私は思った。それに、昔、つまりゲドやテナーが生まれる前に起こったいろいろなことも知りたくなった。アースシーのこと、魔法使いのこと、・・・・略・・・・知りたいことが次つぎと出てきた。今現在のことを理解するためには、歴史も勉強しなければならない。私は多島海の古文書館にしばらくこもる必要があった。」
そして巻末の「アースシー解説」。このようにして壮大で豊かな物語が構築されるのだと感動しました。(いくつかの言語の語源からの考察というのには驚いてしまいます!)
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各巻ごととグループに分かれ、それぞれ話題になったことです。
4巻『帰還』
・小学校6年の時、ジブリのアニメ映画で見たのがきっかけで原作を読んだ。そして、テルーに惹かれた。-―怖くはなかったか? 魅力的に思えた。やけどをされつつも強く生きることができる−格好いいと思った。
・児童文学とは思えなかった。
・(中学生の女の子がテルーに共感や魅力を感じたのに対して)大人→テルーはどこか不気味で捉えどころのない存在。竜の子どもだった⁈ 理解できない…。
・テヌーとテルーが実の親子ではないことは重要なポイント。積極的に子どもを抱えていく姿勢。虐げられた存在を抱えていく姿勢。血のつながりを超えて、人と人とがつながる感じがとてもあった。
(清水「子なしで活躍する女性のウーマンリブとは一線を画す」)
・政治の言葉(教員言葉、役所の言葉も)→目の前で通じてないのに形式を取るくだらなさ。現実的で説得力ある生活の言葉に変えていく努力を。
・男性言葉優位の社会ってどうか? ゲドを読むと家事がしたくなる。→そのためには、生活を疎かにしない。丁寧に暮らすこと。(無名であることを勝ち取る物語として、丁寧に暮らすこと、これがキーメッセージのひとつかと個人的に感じた。)
・後から身につける言葉によって、かえって分かりにくさを増す→生活の中で言葉を覚えていく子どもを見ていて、いつから生活と言葉が乖離するのか、社会に出て一生懸命身につける力ある言葉が生活を乖離させていく?不思議
・4巻全体に流れるテーマとして「信頼」といったものを感じた
以下清水
「“やってくれる”と訳しそうになってヒヤっとした事がある。ちょっとした言葉でル=グウィンの思想を無にしてしまう。とても緊張感のある仕事だった。」
「原題は『テハヌー』、3巻を出した後アイデアはあったが、テルーの後がなかなか結べず、結局、書き上げるまでに時間がかかった。」
「成熟したフェミニズムがここには息づいているのにアメリカでは批判が多かった。」
「フェミニズムを扱っている。1〜3巻より時代が生に感じられる。」
「“自分がどこを見れば過ち少なく生きられるか”というのが私自身当時かかえていた課題のひとつだった。それへの答えを見いだした思いだった。」
「テルーの存在→社会の末端を見落とさないこと。」
「ル=グィンは一般的なウーマンリブの運動を横目に見て、子どもを抱えられない、子ども抜きで考える風潮の危うさに気づいていたと思う。」
「第4巻を訳し終えた後、乙骨淑子に真っ先にこの作品を読んで欲しいと思った。すでになくなっていたけれど、“生活の言葉”で書かれている。今もなおそういうのが低く見られる傾向がある。」「生活をくぐり抜けた言葉をどこまで獲得できるかが大事。」
「コケババの訳し方、生理一辺倒、生活の言葉だけでは一方でカバーできない世界がある。」
「暮らしを大事にする→ひらがな言葉でどこまで現実に対応できるか。」
「知恵の書の扱われ方→作中で4巻では絶対視されなくなっているのが面白い。」
「テルーに作ってやったドレス→私物を持った後の関係の変化をあれこれ考えずにはいられなかった。」
5巻『ドラゴンフライ』
「前書き」
・作者が知らないうちに物語がいろいろ変わっていた。ドラゴンと人間が別れ、人間がドラゴンの領分を侵略した。→考え抜かれている。6巻とのつながり
「カワウソ」
・アニエブという女性が不思議、登場の仕方から切ない。故郷に帰る途中で死ぬ。
・母の言葉→2人は「信頼」しあっていた。
・もう1人の女性モエサシの言葉→「・・・どうということのない無名の人びとのなかにしか、希望は残っていないと思うわ。」力や金のない人、貧しい人の声を聞くことが大事。
・カラスノエンドウ、ノコギリソウ、テルー、アイリアン、ハンノキ、セセラク・・・こういう人たちが生き生きと描かれている。
・“手の女”たち→「社会の隅っこで目立たないが命のことなどに関わる大事なことをする女性たち」?が印象的。清水「Graphicationの編集長だった田中和男氏(故人)は日本の社会の中にいる“手の女たち”を見つけて特集を組んだ。彼はすごい力をもった人だった。」
「ダークローズとダイアモンド」
・ゴールデンの愛情→最初は好きになれなかったが、ロークへ行かせた時、帰って来た時の言葉に深い愛情が見て取れた。
・駆け落ちを悲しむ姿に物欲だけでなく情を感じた。この時トゥーリーがゴールデンに寄り添う姿も・・・。
「地の骨」
・オジオンの小屋は癒しの場所。
・へレスの師匠が魔女だったことに、グウィンの想いを感じた。
「湿原」
・ベリーが急に感情的になり抑えが効かなくなる→発達障害の子の反応に似ている、自己理解をし、自分の行動をコントロールしていこうとするのだが、・・・・・・。
・メグミ→攻撃性を理解し何でも受け入れる女性
「ドラゴンフライ」
・様式の長がかっこいい。ヒッピーの精神を感じる。東洋思想(老荘思想)の影響か。
・この世は均衡を崩している。 9.11を予言? 清水「この頃アフガニスタンの紛争があった」
・「アースシーの風」原題The Other Wind(アイリアンが言っているこの風とは太古の力、女性持つ力という意味か?)このタイトルからは9.11以後に向けられているのでは? 清水「今、別の風が吹いて欲しいわね。」
6『アースシーの風』
・ものを直す力があるハンノキの登場で、もしかしたらテハヌーの外見を直すのではないか?と密かに期待していたが全く外れた。ハンノキが直したのはもっと大きな「世界の均衡」だった。
・『さいはての島へ』の「無垢には悪に立ち向かう力はないが、(略)しかし善を守りそれを支える力はある。」とあったのを思い出した。
結局、アイリアンも、テハヌーも、ハンノキも石垣を壊すために重要な役割を持っていた。この無垢な人たちなくしては、始まらないし、終わりもしない。
・石垣に行ってハンノキは命を落としたが、それはハンノキにとって幸せ、石垣が壊されて死者たちに平安がもどった。
・ハンノキに与えられた子猫ヒッパリもしゃべらないが人をいやすことができた。
・4巻でフェミニズムが表れた時には、著者が同じ時代を生きていることを感じ、「男対女」について考えさせられたように、6巻では「文明対自然」がテーマなのか? 「人対竜」? 竜のことをどうとらえたらいいのか難しい。
・竜の言葉はシンバルのようで人には届かない。
・竜や魔法は自然とともにあり先住民的で、対するガルガド人は文明社会や人間のエゴを表していると思っていたのだが、ところが、文明より自然のほうが価値がある、自然は善で文明は悪、というような単純な構図ではなかった。
・どちらかが良いとか悪いとかではなくて、異文化と融合するところに価値があったのでは。(アレンとベールをかぶった女性の結婚、本能的、動物的なアイリアンと様式の長アズバーとの出会い)
・そういえば、セセラクの心を開かせたテナー自身もずっと異文化の中で生きてきた人だ。こういうところも物語がつながっている。
・5巻でもやもやしたカップルたちが歩み寄ってハッピーエンドになったり、テハヌーが竜の世界に行くところでは親離れ子離れに重なって共感したり、日常をていねいに暮らしていく残された老夫婦の生活にほっとした。(ドラマチックの中に日常はちゃんと動いている。)
・最後のゲドとテナーの会話がとてもいい。こういう終わり方でよかったと思う。
・トンボの名前がドラゴンフライと改訳されたことについて。トンボとして読んでいたので、後からドラゴンフライに変わってちょっと残念。トンボを英語でいうとドラゴンフライなんだ、と知った時にあ!って気づくのも楽しいのではないかと思ったけれど、最初からドラゴンフライで読んだ方たちは名前から漂うドラゴンの気配をどう感じたのだろう。
・ギリシャ神話(パンドラ)のようなところも出てきて面白い。
全般について
以下清水
「恋愛、家族愛から国の統治まで広いテーマが詰まっている。」
「戦争を生き延びるよりも平和を生き延びる力の方が大事、だがむずかしい。」
「ル=グィンはセセラクが大好き、くるぶしの描き方などからも分かる。こういう人に未来を託そうとしているようだ。(清水→セセラク奨学金を作った。)」
「最後の最後の場面がとても好き。なんでもない何処にでもある場面を最後に持ってきたことに大きな意味がある。→これって意志して無名を勝ちとる物語だったんだなぁ・・・と思う。私たちは意志しないと有名を勝ちとってしまう。その意味で第6巻は必要だった。逆に、ここまで来るのに1〜5巻の、涙あり苦闘あり嵐ありの長い年月が必要だった。」
「私たちの普通の平凡に見える暮らしの中にもこれと同じことがある。トルストイは幸福な家庭はみないっしょだなんて言っているし、ル=グィンも幸福について書くと途端に周りからは批判がくると言っているが、実はつましい平凡な幸福の中にもドラマがいっぱい隠されている。」
以下、参加者からの感想です。これらは会が終わってから、参加者に寄せていただいたものです。
その1
とうとう最後の日になってしまったことに、充実した思いと、ちょっぴり寂しさも感じます。
しかし、先のレポートでも書いたように、なぜか心の内にアースシーが根付いているようで、消失感などはなく、これからどんな変化を遂げるのかという楽しみさえ感じています。
会の最後の方で、清水さんがセセラクの足首の描写のところの話をされました。実はわたしもドキっとした箇所でした。あとレバンネンと初めてまともな会話をした時、レバンネンの息子たちが竜になり、竜の王さまになるようにと伝えるセセラクがわたしはとても好きでした。
でもあの場でセセラクの話はまったくしませんでした。
なんともったいないことをしたのだろうと気づいても後の祭りです。
大事なことは、大きく見えることではなく、そういう小さなことが積み重なっていくことなのだと思いました。
その2
最後の会だというのに、ドラゴンフライの、途中までしか読みきれず、でも、その場にいるだけでもいたい、という気持ちで、参加させていただきました。ありがとうございました。
やはり、ちゃんと読んでいなかったので、色々な方の話を聞きながら、そんな場面があるんだなぁ。と思いつつ、話されてる内容になんとなく共感していても、それは本当にかすかな感じで、ああ、やっぱりちゃんと読んでおけば良かった!と悔しい気持ちと、よくはわからないけど、心に留めておこう、という気持ちと一緒に聞いていました。
その後、少しずつ読みながら、ああ、あのとき言われてたのは、ここの事かな。とこの間のみなさんの言葉が何度も浮かんできました。
それから、もう1つ、なぜかいろいろな場面で、特に竜と人間が昔一緒だったときのはなしを繰り返し色々な場面で見るたびに、星野道夫の本に出てきた、イヌイットの、「魔法のことば」という詩がずっとぐるぐるまわって、自分としてはすごく繋がるなあと思っていました。
会の中で世界が破滅に向かっている「アースシーの風」や「ドラゴンフライ」の様子と、現実のこの世界の出来事(特に9.11を境にして)が重なる。まずは一度壊れてから作り直す事が必要なのかもしれないとうことが話題になっていたことが印象的でした。
世界の事、と考えると難しいけれど(壊れてしまえばいいとは簡単に言えないけれど)、自分の中のことで考えると、自分の中のずるずるとしがみついたり引きずったりしていることで大事にしなくちゃいけない事が見えなくなったとき、一度全部壊れてもいいくらい思い切った方がいいような事がある。でも、そのときに壊れるべきものは壊れるし、本当に大事なものは壊れないような、そういう事があるな。そういう感じと似てないかな。と(全然規模は違いますが)思ったりしながら、ドラゴンフライやアースシーの風を読みました。
そんななかで、眠れないハンノキにハイタカが、一晩中きにかけて手を当ててくれた場面。ハンノキを丘の斜面に近づけないでおくのは、魔法の力なんかじゃなくて。生きている人間の手ではないか と言う場面(人間だけでなく動物のぬくもりも)が、自分にとってとても腑に落ち、希望がもてる場面でした。
三回の会で清水真砂子さんにお会いでき、お話を聞き、沢山の方々と一緒にその時間を共有できたこと。1つの本を読んで沢山の人の目線からじぶんだけでは気がつかない沢山のことを考えられたこと、本当に貴重な時間でした。
やはり、まだまだまとまってはいませんが、少しずつ消化して自分の中に落としていければと思います。
ありがとうございました。
その3
先日の哲学する会はとても有意義でした。ゲド戦記の読書体験が、あの会でぐっと深まりました。また、翻訳といえど、その表現の豊かさ深さに感銘を受けていたので、直接、清水真砂子さんにお会いできたことも嬉しかったです。一巻のあたま、オジオンの山の逍遥、散歩でなく逍遥という言葉からまず気に入り読み出しました。やはり、翻訳という作業は、頭だけでなく体や思想や体験やらを総動員し、注意深く言葉を選ばれていることを教えて頂きました。まだ6巻まで読み終えていないのですが、「無名であることを勝ち取っていく物語」壮大でありながら普遍なことであり、自分自身や両親や祖父母の人生なども振り返りながら読み進めています。良書はひとりで読むだけでは勿体ないですね。考えを深めたり、違う視点に気付いたりすることが出来た有意義な時間でした。有難うございました!
その4
今回もこれでもかというくらい『ゲド戦記』の奥深さを思い知らされる(?)読書会となりました。参加できて本当によかったと思いました。
自分だけで読んでももちろん面白かったのですが、読書会を通じ、自分ならスッと読み進めてしまう個所にこだわったり、感じ入ったりされている方がいらっしゃるのがとても新鮮でした。もちろん、『ゲド戦記』がそうした読み方に耐えうる豊かな作品であるからこそなのですが。
さて、今回特に新たに思ったのは「アースシーの世界の広がりとその細部にまでわたるリアル感について」でした。
私は第5巻(『ドラゴンフライ』)を丁寧に読んでいくことで、アースシーの世界の空間と時間軸が見事に構築されていることには気づいていましたが、なぜそこまで、ということはよくわかっていませんでした。
でも皆さんの様々な考えや思い、そして清水さんのお話しを伺ううちに次のように考えるようになりました。
「私たちの生きる今現在の世界」を読み解きながら、ル=グウィンが伝えたいことを表現するために、ひとりひとりの登場人物やもの、場所、出来事が一つとして欠かせなかった。だからそれらがどんなに空想的であっても、存在としてのリアル感が必要だったのだと。
清水さんのおっしゃった「意思して無名を勝ち取った人間の物語」を書き切るには、これだけ膨大できめ細かな世界が必要だった。そのため読む方としては、読むたびに新しい発見をし、豊かになっていけるのだと思います。
3回を通して感じたことをまとめてみたいと思いながら、手を付けることができなかったので、取りあえず、今回の感想をお送りします。
その5
今回もまた、とても充実した時間を過ごさせていただきありがとうございました。今回は、翻訳の大変さについて学ばせていただきました。
4巻『帰還』の翻訳についての清水先生の話は、衝撃でした。この『帰還』にテナーが夕食の片づけをしない火花に向かって「ゲドだってするのよ。」のいう一節があります。この部分を、先生は始め「ゲドだってしてくれるのよ。」と訳されたそうです。しかし、この訳では物語の世界が壊れてしまうと考えて、「ゲドだってするのよ。」と直されたそうです。「する」と「してくれる」、うっかりすると読み落としてしまうような微妙な違いですが、その違いは大きいです。「してくれる」という言葉の裏側には、「本来は女性の仕事である後片付けを、男性のゲドが気を遣ってわざわざやってくれる。だから、私はこのことに対して感謝しなければならない。」という意識があるからです。これは、作者ル グィンの柔らかなフェミニズムとは、かけ離れた意識だからです。先生は、このことを例に挙げてお話しされましたが、こういう言葉〜つまり、翻訳家の意識が試されてしまうような言葉〜が、『帰還』には「地雷のように埋められている」のだそうです。 私自身、物語の内容と共に表現を読むことの大切さは解っていたつもりでしたが、正直このレベルまで気を付けて表現を読んではいなかったように思います。単に情報の一つとして物語を読むならば、粗筋を読んでいくという読み方もありだと思います。しかし、こういう話を伺うと、自分の感性のレベルを上げて、表現の面白さを味わえるようになりたいとつくづく思います。
このことが一番の感動だったのですが、もう一つ印象に残ったのが、「『ゲド戦記』は、意図して無名を勝ち取る物語」という言葉でした。私の身の回りを見ていても、退職後も元に地位にしがみついているかのように見える人たちがいます。退職したら、後は自分として生きればいいのに、そういう『自分』〜ゲドのように自分のパートナーと日々の生活を愛おしんで生きていくような自分〜が、ないのでしょうか。先生は敢えてここで「勝ち取る」という言葉を使われましたが、それは勝ち取りにいくという困難を避けては手に入らないという意味で、とてもいい言葉だと感じました。もちろん、ここで戦うべきは「自分自身の凝り固まった観念」だと思うのですが。
蛇足になりますが、前回、自分の感性を蘇らせてくれる先輩のことを書きましたが、考えてみると、この先輩も、「意図して無
名を勝ち取」った人だと思いました。確かに、この先輩のお宅には、『アースシーの風』の最後の場面のゲドとテナーのようなお互いを慈しみ合うような空気が漂っています。こういう素敵な人と自分がつながっていることの幸せも感じました。
自分の幅が広がるとても良い機会でした。できるだけ都合をつけて、次回も参加したと思います。(小学校教諭)
PS 今回、中学生のお嬢さんが参加していました。とても新鮮な感じがしました。原書まで持参されたことからも並々ならぬ情熱を感じました。こういう若い世代に、『ゲド戦記』が引き継がれていることがわかり、そのこともとても嬉しく思いました。
その6
男女共に力を合わせて世の中をよくしようする“手の女たち”の存在が印象的でした。アースシーでも、私たちの世界でも、“手の女”の存在はとても重要で、生活や命に関わる大切な部分で大きな役割を担っているように思います。なのに、どうして隅に追いやられてしまうのでしょうね。
これは余談ですが、先日、ある読書会に参加して、ラノベのような軽い読み物が好きという数人の方とご一緒しました。その会で、主人公がものすごく都合よく姿を消すので、その辺りをもう少し描いて欲しかったという意見が出たのですが、いとも簡単に「ファンタジーだから」で片付けられてしまい、密かに憤慨していました。
ファンタジーって、上手く説明出来ないことを魔法の杖で片付けちゃうようなものではないですよね。ゲドと魔法と均衡のことを思い、軽々しく「ファンタジー」という言葉を使って欲しくない!と思いました。ファンタジーは、舞台は架空の世界かもしれないけれど、本当のことが書かれていると思います。(小学校図書館司書)
その7
前回もそうでしたが3班に分かれて話し、様々な年齢、経歴の方が集まっての密度の高い内容になり良かったと思いました。
私は実は『ドラゴンフライ』の「カワウソ」の後半の女性モエサシと切ない恋に落ちる場面や、「ドラゴンフライ」のアイリアンの粗野なところ、若いゾウゲとの会話、女人禁制ろロークの魔法学校に入ろうとする気持ちとか・・・も大好きです。その後の様式の長の格好良さと併せて(この2人の関係が気になることも含め)、もっともっとこの辺を皆と語りたかった(笑)。でも「ゲド・・・」の大きなテーマではないだろうと会では遠慮していました。でも、ということはル=グィンがキャパが広い、大きな守備範囲を持った人だということで、会で話題にならない事でも皆がどの部分に関心が向くのかも興味深いところです。
さて、今回私は会のために「ゲド・・・」を再読して、清水さんが以前からおっしゃっている「日常の暮らしが大切」だということや「平和を生き延びる力の大事さ」ということ、「生理から発する言葉」を意識し、感じながら読むことができたような気がしました。どこが?ということではなく、ゲドの特に4〜6巻がそうだなと思います。他のファアンタジーを楽しむ時とは測るもの差しを変えないと楽しめない部分がある、そう感じながら読んでいくと腑に落ちるところが沢山あったと思います。
そして、恐らく、6巻の最終章は2001年の9.11同時多発テロ以降に書かれていると私は推測するのですが、9.11があってもなくても、これからの世界に対して「別の風」を吹かせるための大きなメッセージが込められているなぁと思いました。
でも、それは政治的なショーの中にではなく、日常の積み重ねの中、普段からの生活や人との対話の中にあるだろう、女性の持っている太古からの力などが大事な役目を果たすのだろう・・・と漠然とですが希望を感じながら読み進むことができたように思いました。「私たちは壁を壊すことは難しい、けれども窓を開けることはできる」(オノ・ヨーコ)。まず、「別の風」を入れるために窓を開けることからはじめたいと思います。(百町森・柿田友広)