ネフさんのこと (2005.04)

2005年4月 相沢康夫

来年(2006年)、80歳になるクルト・ネフさんは、今も現役のおもちゃデザイナーです。いつお会いしても、笑顔とジョークで周りの人を暖かく包み込んでくれるような、やさしい人柄のおじいちゃんです。私はネフさんのことを思うたび、なにか胸の奥がホカホカしてきます。ネフさんについては、今さら説明不要かもしれませんが、ネフ社の創設者であり、「ネフスピール」「ベビーボール」などの作者でもある、木製玩具界の重鎮です。そして、私にとっては、ネフ社デビューのきっかけを作ってくれた恩人中の恩人なのです。

1991年、ネフ社の「キュービックス」や「ネフスピール」に惚れ込み、恋焦がれた私は、ある日ふとしたキッカケで、ひとつのモザイクのおもちゃを思いつきました。さっそく、知り合いの看板製作所の工作機械を借りて、試作第一号を作りました。

あの時のことを思うと、どう考えても、ネフ好き(またはネフ病)の好きが高じて、作り手に廻ってしまった・・・としか言えないような気がします。さて、この試作品のおもちゃ、当時小学校1年生だった長男に遊ばせてみると、とても喜んで、夢中で遊んでくれました。1ピースが正三角形で、黒と白で半分ずつ塗り分けてあり、これを24個、六角形のプレートに並べて、模様を作るというおもちゃです。長男は「三角モザイク」と名前をつけて遊びました。そこで私は、この作品を「トライアングル・モザイク」略して「ツリアモ」と正式に名付けたのです。

さあ、この出来たおもちゃをどうしよう?そうだ!ネフ社に売込んで製品化してもらおう・・・と、その当時の世間知らずの三十男は思いついてしまったわけです。でも、売込む方法は全くわかりませんでした。当時のネフ社のカタログを見ると、何人かの日本人デザイナーの名前が載っています。「ピクト」の和久洋三氏、「動物組み木」の小黒三郎氏、「タムトップ」の田松昌三氏・・・どなたも芸大や美大を卒業された、日本でも活躍している現役デザイナーばかりです。日本でそれなりに認められなければ、ネフ社で製品化してもらうのは無理なのかな?とも思われます。でも、そんなことでビビらない私は、アトリエ・ニキティキの社長、西川敏子さんに相談することにしました。ニキティキはネフ社製品の日本の輸入元で、西川社長は日本におけるネフの窓口でもあります。さっそく電話すると、西川さん開口一番、「相沢さんッ!ニキティキ通信を読んでないわね!」と叱られてしまいました。「来週ネフさん来日するのよ。会いたい人は連絡をくれるようにお知らせしたのに・・・」とのこと。私はすぐ、「会いたい、会いたい、今から予約できますか?」と聞きますと、答えはノーでした。残念・・・。ネフさんが吉祥寺のニキティキ事務所にいる間中、すでに一時間毎に数人のアポイントが決まってしまっていたのでした。落胆する私に、西川さんは「午後6時から、ネフさんを囲むパーティーがあるから、それにいらっしゃい」とお誘いくださり、私は即、それに申し込んだのです。

ネフさんにお会いするのは、その日が初めてではありませんでしたが、久々にネフさんの優しい顔に会えると思うと、朝からそわそわの私です。6時に吉祥寺ですから、昼過ぎまで静岡で仕事も出来るのに、私はその日一日休みをとってしまいました。そして、うれしさのあまり、なんと4時前にもうニキティキに到着していたのでした。

さて、運命の女神の存在を信じたくなるような出来事が私の身に起こったのは、その直後です。ネフさんと4時から面会の予定だった方が、当日キャンセルをしてきたのです。西川さんに声をかけられて、なんと私は、その方の替わりに4時から5時までの1時間ネフさんとお話することができたのです。通訳つきの贅沢な一時間でした。そこで私は、前述の「ツリアモ」の試作品をネフさんに見ていただいたのです。ネフさんは「ツリアモ」を見るなり、「面白い!素晴らしい!」を連発。「これをスイスに持ち帰って、ネフ社で製品化したいが、しばらく預かっても良いか?」と聞かれて、私は「ヤー、ナチューリッヒ(独・ええ、もちろんです)」。1991年10月13日、こうしてこの日は、私にとって生涯忘れられない日になったのです。

6時からのパーティーでは、ネフ社のカタログで、その名前を知っていた方々にも会うことができました。幾何学パズル系の別宮利昭氏や、情緒的な木製玩具作家の武山忠道氏などなど・・・です。皆、手に手に自作のおもちゃを持ち、ネフさんに売り込んでいます。大勢の方の売込みをの当りにして、そこで私は初めて焦りました。(ネフさん、まさか、みんなスイスに持ち帰るんじゃないだろうな・・・)そう思って見ていると、ネフさん的にはボツの人もけっこうな数いて、ちょっと安心したりと小心な相沢です。結局、この日、試作をスイスに持ち帰ることを決めた作品(第一次試験合格作品みたいなモノ)は、私の「ツリアモ」と、若きホープ岡田哲也君の「ゼンマイじかけのダンスゴマ」の2作品のみでした。岡田君は、和久洋三氏の下で修行し、現在は日本一の木工職人を目指し、葛飾木工所に勤めている好青年です。私も自作を何点か彼に作ってもらっています。

さて、ネフさんがスイスへ持ち帰った2つの試作品がその後どうなったかと言いますと、2つともボツ・・・だったんですね、これが・・・。キビシイ世界です。その製品の精度と美しさで「世界のネフ」などと呼ばれるネフ社といえど、新作が出るのは年に3〜4点ですから、まあ甘くない訳です。「ツリアモ」はネフ社で試作まで作り、ニュルンベルクの見本市にも並べられたのですが、価格と面白さを秤にかけて、製品化へのゴーサインはとうとう出なかったのです。ちなみにその時ネフ社が作った「ツリアモ」は、現在私の手元にあり、大切な記念品となっています。ツリアモ・ボツの知らせが私の元に届くのに、半年以上かかりました。この間の私が、どんな風だったかと言いますと、針のムシロの上でヒヤヒヤ、ドキドキだったのではなく、むしろその逆と行っても良いほど、脳天気に新作をガンガン作り続けていたのです。要するに楽天的だった訳ですね。そして、このときに生まれた作品の中の一つが、「アイソモ」なのです。作った端からネフ社に送り、また作っては送り、10点近くの作品を送ったと思います。「アイソモ」を送って一週間後、私の所にネフ社からFAXが届きました。「アイソモを製品化する」との内容。決まる時には早いんですね。もうビックリ。と、まあこうして、私はネフ社デビューを果たし、おもちゃデザイナーの肩書きを持つに到ったのです。

そして、その後の私のおもちゃ人生を振り返ると、いつもそこにネフさんがいてくれたことに気づき、感謝の気持ちで手を合わせてたくなります。例えば「ヴィア」。2枚のアクリル版の間をビー玉がゆっくりと落ちていくという玉落しのおもちゃですが、これも日本で、あるおもちゃコンペの賞をいただき、ネフさんがスイスへ持ち帰り、製品化になりました。また、「ボーン」という骨型の積み木は、ネフさんのご好意で、ドイツのジーナ社に売り込んでいただき、製品化となりました。その後、ジーナ社のザイドラー社長とも親しくなり、「ツキミ」と「ビブロス」の2点の積木が製品として世に出ました。いろんなことの、そもそものきっかけを作ってくれたのが、ネフさんだったのです。恩人中の恩人と前述した訳がおわかりいただけましたでしょうか?

ネフさんとの出会いがなければ、今の私はありません。ネフさんとネフ社から学んだこと、いただいたことの、そのあまりの大きさに今さらながら改めて御礼を言いたくなるアイザワでありました。

ネフさん、本当にありがとうございます。

(「コプタ通信」2005年5月号、相沢康夫)

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