「慰霊の日」にちなんで沖縄の本3点
今日、6月23日は沖縄の「慰霊の日」。
66年前のこの日(6月22日という説もあります)、日本軍の牛島司令官が自決したことで、組織的戦闘が終結しました。しかし、最終命令で、最後まで戦え、と命じたばかりに、その後も多くの軍人・住民が犠牲になったのです。岩波ジュニア新書「ひめゆりの沖縄戦」から関連部分を引用します(文中の太字は佐々木)。
住民戦没者はなぜ多いか 村上有慶
四月上旬から五月下旬までの主力攻防戦こそが沖縄戦でした。日本軍の主力部隊の70パーセントは、この攻防戦で死んだり傷ついたりしました。(中略)5月28日、第32軍は首里の司令部を撤退し、南部の摩文仁(まぶに)へと司令部をうつしました。この時点で、軍隊どうしの戦争の勝負はついていました。
ところが日本軍は、南部戦線で軍民混在となって戦争をつづけたのです。このために死ななくてもいい多くの人たちが死んでいったのです。(中略)首里で沖縄戦を終えていれば、半数以上が死なずにすんだのです。
そのチャンスは何度もありました。米軍は牛島司令官に対して、再三にわたって降伏勧告を伝えています。でも牛島司令官は最後まで降伏をしなかったのです。6月19日には最終命令を出しています。
「爾今各部隊は、各局地における生存者中の上級者之を指揮し、最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」
最後まで徹底抗戦し、玉砕せよと命じたのです。6月22日の牛島自決後も、さらに8月15日のポツダム宣言受諾以後も、多くの軍人・住民が死んでいかざるをえなかった原因がここにありました。
(「ひめゆりの沖縄戦」より)
ひめゆりの悲劇はなぜ起こったのか 村上有慶
(前略)仲宗根改善先生はつぎのように語っています。
「6月17日、米軍司令官バックナー中将が牛島中将に降伏の勧告をした時点では、ひめゆり学徒の犠牲者は11名だった。その翌18日、学徒隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。19日には、現在のひめゆりの壕で、ガス弾をほうりこまれて、職員生徒35名が無惨な最期を遂げた。その他多くは、沖縄最南端の断崖に追いつめられて命をたったのである。ひめゆりの塔に祀られている学徒は、194名。なんと悔しい思いか」
牛島司令官は19日「最後の一兵まで戦え」との最終指令をだし、22日摩文仁で自決しました。
住民の命を守らない軍隊は、民衆を巻きこみ、軍民混在となって南部へと戦争を引きのばしたために、死ななくてもよい人たちが死んでいったのです。
(「ひめゆりの沖縄戦」より)
この機会に、沖縄戦について学んでみませんか?3冊のジュニア新書、中高生以上からですが、大人が入門書として読むにも最適です。
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